ブチギレる快感

「あぁ!?」

思わず口をついて出てしまった声の大きさに、自分自身が驚く。
発音は「あ」に濁点がついたもので、それが疑問と恫喝のどちらを意味しているのか判然としないまま、とにかく逆流する血の勢いに乗るように発してしまったのだ。

一度声に出してしまったが最後、もう自分では制御することができなかった。
ダムが決壊するがごとく、今まで溜めに溜めこんだタールのようなどす黒い怒りや憤り、その他の負の感情が一気にリバースするように止めどなく溢れてきた。

そう、とうとう上司である彼女にブチギレたのだ。

私はとある商品全般の在庫管理を任されていた。
ロクな説明もなく、引き継いだ時点で商品の種類はおろか在庫点数まで全く管理されていない、完全放置状態でのムチャ振りだった。
積み上がった在庫を眼の前にして、着手する前に心が折れるような絶望感を味わったのはいうまでもない。
「どうすんだよ、コレ・・・・・」
私でなくとも、このうず高くランダムに折り重なった在庫の山脈をみたら、誰でもため息混じりの呪詛の言葉を吐くに違いない。
管理云々の前にまずは現状を把握しなくては何も始まらない。
最初に手を付けるべきは棚卸しであり、整理であることは言うまでもなかったのである。

たが、その商品は次から次へ入庫と出庫をくりかえし、棚卸しの作業は進むどころかますます混乱を極めていった。
日々の業務の忙しさも手伝い、時間を捻出できなかったというのが本当の話だ。
コンプライアンスが叫ばれ残業時間に厳しい制限が掛けられる中、依頼される仕事量は増えるばかりであった。
業務の優先順位をつけたくとも、メールや直接依頼されるそれには常に「急ぎで!」の一言が添えられる。
依頼する相手を気遣ったりすることなど微塵もなく、すべての優先順位が「高」なのである。
こうなると順番でこなしてゆくしか手立てがない。ファーストイン・ファースト・アウトだ。
「◯◯の進捗はどうなった?」と聞かれても、「あ、依頼された順番で処理してますので・・・・・」などとお役所仕事のような返答に終始してしまう。

くるくると在庫の棚に人が集まっては散ってゆき、管理する間もなく商品が移動する様子を横目に見ながら、もう半ば管理すること自体を放棄したくなってきていた矢先、いきなり彼女から詰問を受けた。
「五郎さん、◯◯のLサイズが棚に見当たらないんだけど一体どうなってるの?在庫管理表を見る限りではまだ1つは残っているはずよ!」
何を言うのか・・・・・。
彼女が手にしている在庫管理表は、私がなけなしの時間を使って一ヶ月以上も前に在庫数を確認したものだ。
その管理表に記載されている商品でさえ、新型がどんどん納品されてきて品目を追加する時間もなく今日に至っている。
古新聞の情報に信憑性を求めるほうがナンセンスではないか。

体は一つで手は二本しかない。こなせる量も物理的に限界がある。
にも関わらず一日でやるべき仕事量は増えるばかりで、さらにその上からミルフィーユのように新しい仕事を折り重ねるように依頼してきて、それでもまだ在庫管理について進捗を求めてきている。

「五郎さん、在庫管理が杜撰なんじゃないの?もっとしっかりしてください!!」
ず・さ・ん。
このたった三文字の言葉がかろうじて踏みとどまっていた理性のタガをはずし、忍耐という名のダムを決壊させた。
そこを経ての冒頭の「あぁ?!」なのである。

「最初から何の説明も引き継ぎもなく、おまけに在庫管理もなされていない無法地帯で丸投げされて、日々の仕事は増える一方で時間的猶予もない。これで手が回らない在庫管理について対応が杜撰とは聞き捨てなりません!」
「仕事の頼み方も乱暴で、常にファースト・プライオリティで要求されたらどうやってその時間を作ったら良いんですか?」
「黙って聞いてりゃいい気になって、挙句の果てには管理が杜撰と文句を言われたらやってられない!
「あなたは仕事が出来ます。だから上司としての仕事ぶりは信頼しています。ですが、人間としては信用できません!」
「全くクソ気分悪い!」

まくした。まくし立てた。
もうどうなっても良い、これで今まで溜めに溜めた鬱憤に別れを告げられる。
「退職」の二文字が頭に浮かんだ途端、口から出てくる言葉は辛辣の度合いを急速に高めてゆき天井知らずとなった。
最後の最後は正直な自分の気持を爆発させたのだ。
給料と社会保障を人質に取られて我慢に我慢を重ねてきたが、限界を超えてブチギレた結果、人質奪回を諦めて無敵の人になったのだ。

地団駄を踏み正面から上司の目を睨みつけ、マスク越しに掛け値なしの本音を爆発させた。
明日から職安に通う日々になるが、それもまた人生。ザッツ・ライフだ。
妻よ、母よ、この堪え性のないアラ還男を許してほしい。夫としても息子としても不甲斐ないことこの上ないが、最後の最後はクソ上司に屈することなく己の矜持を全うしたのだと諦めてほしい。
次の職場でもしっかり頑張るから・・・・・。
様々な思いが胸中に去来しながらも、思いのすべてを吐き出し放心状態となっているところへボソっと彼女のつぶやきが耳に届いてきた。

「わかりました、わかりました、すみません、すみません」

最初彼女が何を言っているのかわからなかった。
普段から高圧的で、上から目線の物言いが通常運転の彼女が発している言葉とは思えなかった。
言いたいことを言い放ったあとは、失禁状態にも似た開放感に全身を包まれながら自席についた。
明日からの身の処し方を思案しながら、退職届の書き方やら各役所への手続きはどうしたら良いのかを考えながら、その日はあっという間に定時を迎えた。事務所にはなんとも言えないいたたまれない空気が充満し、全員が窒息しそうなくらいに沈黙を守っていた。

「お先に失礼します」
そう告げた私はタイムカードを打刻し、今日あったことの全てをどうやって家族に伝えようか、明日からの転職活動をどういしようか、家のローンや当面の生活費をどうしようか、頭の中はそれらの不安で一杯になっていた。
一時的に無敵の人になった私は、明日からは無職の人に成り下がってしまうのだ。

「明日からもよろしくお願いします」
彼女の口からとんでもない言葉が発せられた。謝罪の言葉だけでも信じられなかったのに、明日以降も仕事を続けても良いと思われる言葉だった。
退職する気満々だった私はしばらく何も言えず、タイムレコーダーの前で酸欠金魚の如くクチをパクパクさせていた。
「はい」
極度の緊張とそれが弛緩されたことによる脱力感でグッタリしてしまい、その後はどうやって帰路についたのか、どうやって帰宅できたのかもはっきり覚えていない。

だが、今もこうやって同じ職場で働けているということは、少なくとも覚悟していた退職は免れたということである。
あんなに緊張し、覚悟し、言いたいことを言い、全てを放出した気分は人生初の経験だった。
これから先、ひょっとしたらまた今回と同じようにブチギレてしまう可能性はある。
だが、一回はブチギレてみるのも悪くないと思う。
なぜなら、彼女の態度が目を瞠るほどに柔らかくなったのだ。
依頼してくる仕事に対しても、明確な優先順位と期日を設定してくるようになったのだ。
(相変わらずタイトなスケジュールなのは変わらないが・・・・・)
少なからず彼女の心に響くものが有ったのだ。

一週間経過した現在、彼女の言動はもとに戻りつつあるが、明らかに以前とは態度が変わったことを肌で感じられる。

我慢するだけが人生の美徳ではない。
世の中のクーデターは、このようにして些細な一言から始まるのかもしれないと、あの日の自分の言葉を思い出しながら今日の変化に驚いている。

人生、一回くらいはキレても良いんじゃないか?
自分自身が潰れてしまうくらいなら、一度はダメもとで闘ってみる価値は十分にある。

 


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