黄昏タイム、ふたたび

人生を半世紀以上もサヴァイブし、諦めと絶望の数が希望のそれより上回るようになった。

血気盛んで見境がなく、何でも出来て、欲しいものは全て手に入ると盲信していた二十代の頃。
無尽蔵に湧き上がる元気と勇気と性欲で、これからの将来は、黄金色の空に浮かぶ虹のようにキラキラ輝くだろうという未来予想図しか思い浮かばなかった。

それがどうだ・・・・・。
手中に収められると夢想していたたものは、手にしたと錯覚した途端、指の間からすり抜けていく砂のようにこぼれ落ちていった。
砂塵と化したそれらは、もう二度と取り戻すことができない。
時の流れと共に、遥か彼方の時空に飛ばされ、再び相まみえる機会は訪れることはない。
人生の逸失利益は、こうして層を重ねるようにして増えてゆく。

歳を重ね分別がつくということは、諦めに変質した未来の展望を受け入れ、納得していく心境の変化にほかならない。
分別という言葉を無理やり飲み込めることが、大人になり、世間との折り合いをつけられるということなのだ。
生きている中で対峙する様々な岐路の瞬間。そのときに出した決断の積み重ねが、人生における納得感や達成感を醸造していく。
諦めと絶望の総量がそれらを上回り始めたとき、人は抗いがたい加齢を感じ、欲求を放棄するように方向転換を余儀なくされるのだ。

古き良き昭和の時代を追憶する時間が増えてきた。
夕食を終え、面白くもなんともないバラエティ番組の視聴に時間の浪費を感じると、すぐに自分の部屋に戻り、安っぽいビニールレザーの椅子に体を預ける。
人工的な暖色系LEDライトに照らされた虚空を眺めながら、何も考えず無為な時間を過ごすのが最近のお気に入りだ。

TVやネット動画視聴は、一方的に網膜と鼓膜から情報が入り込み、思考でそれを咀嚼する暇を与えない。
問答無用で要不要の区別なく飛び込んできたそれらは、瞼を閉じると、老廃物のように、ジクジクと音を立てながら脳から排出されていく。
余計に脳を疲弊させるくらいなら、虚無に近い時間を過ごしている方がよほど精神のデトックスになる。
頭の中を空っぽにし、思い出の中にタイムスリップしてゆくのだ。

記憶の中にある原風景。
その中にある電信柱はコンクリートの無機質な棒ではなく、黒い松ヤニが塗られ節くれだった一本の木であった。
雨風など防げるとはとても思えない、申し訳程度のスチール製の丸い帽子を被った裸電球が、真っ暗な夜道を暖かく照らしていた。
そして、その下には水田用水のための小川が流れている。土と雑草に覆われたそれは、現在のようにU字溝やグレーチングなどの近代的な土木敷設は施されてはいない。
学校からの帰り道。その小川を飛び越えるのを失敗し、足首まで泥と水に浸かり、おろしたての運動靴をグチャグチャに汚していた友の笑顔は、苦々しくも晴れやかだった。
満々とした重さと量をたたえた稲の根本、そこを覗けば、ぬかるみに中にオタマジャクシとアメリカザリガニがこちらを見返してきた。
母親が働いていたため、仕事が終わり迎えにきてくれるまで、農業を生業としていた祖父母の家で放課後からの時間を過ごした。
裏口から台所までつづく土間では、竈に差し込まれた薪が赤々とした炎と煙を上げ、その近くには、これまた薪を燃料とした桧の風呂桶が鎮座ましましていた。

風呂上がりの火照った体に流し込んだヤクルト。
定期購入のオマケでもらった、薄黄色く退色した厚手のプラスチックのコップが大好きだった。
その表面には鉄腕アトムと妹のウラン、お茶の水博士たちのイラストがプリントされたいた。
元の色は真っ白だったのだろう。かなり使い込んで本体表面とプリントがかなり退色し、ところどころ剥げたみずぼらしいものだったが、経年劣化でボロボロに崩れるまでずっと使い続けていた。

帰宅の遅い母の変わりに、夕食は祖父母の家で用意してもらい食べさせてもらっていた。
薄緑色の瀬戸物茶碗にご飯をこんもり盛ってもらい、質素な風合いの木の椀には豆腐とワカメの味噌汁が定番だった。
おかずは魚の干物を炙ったものや煮物がほとんど。
TVで見聞きするカラフルな料理とはほど違く、食べざかりの子供が満足するようなメニューでなかった。戦後の貧しいモノクロームのような色合いが支配する食卓だったが、それでも、祖父母と一緒に食べる夕食はとても美味しかった。

祖父は躾に厳しい人で、特に食事に関するマナーについてはことのほかうるさかった。
足を崩し胡座をかくなどもってのほか。口の位置より箸をあげる「あげ箸」、汁物やお茶で箸を洗う「洗い箸」、箸と茶碗を持ったままお代わりをする「受け箸」、同じ料理ばかりをつつく「移り箸」・・・・・数え上げたらキリがないが、それら食事における行儀について、毎日の食卓を通し、ギロリとした鋭い眼光と無言の圧力をもって幼い私に叩き込んでくれたのだ。
大人になって、すくなくとも食事でのマナー違反を侵さなかったのは祖父の教育のおかげだ。

とりとめのない幼い頃の記憶が虚空を舞う。
明日も仕事だ。
やるせなさと超絶マックスの黄昏タイムのなか、ふと目をやると、窓ガラスにはLEDライトに照らされた冴えないアラフィフおやじの疲れ切った顔が映り込んでいた。

今こうして子供の頃を回顧している。
今のこの時間を回顧するようになる頃、自分は何歳になっているんだろう?
またも、とりとめのない思いが頭をよぎる。
しんしんと冷え込んでいく室温と共に、黄昏タイムが部屋中に充満していく。

「お前の人生も確実に黄昏る時期に入っているんだぜ」と、窓に映る自分が語りかけてきている気がしている。
「そうだよね・・・・・」、窓ガラスに写った自分に思わず相槌を打ってしまっていた。
こうして、また黄昏タイムの夜はふけてゆく。




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