組織の頂点に立ち、それを統括する者。
時と場合により部下に苦言を呈し、組織全体の規律を守らねばならぬ立場にある者ほど、その言動や立ち居振る舞いには常日頃から注意しなければならない。
私のボスは年下の女性である。
50を過ぎてからそれなりの大きさの組織運営を任され、仕事一筋に邁進してきた人間である。
仕事ぶりは優秀そのもの。まさに女傑である。
誰も何も文句が言えない。
ありとあらゆる事柄、部下の言動や一挙手一投足にまで目と気を配り、緊張した日々を送っている。
それにしても大したものである。
普通にしていたら忘却の底に埋没してしまいそうなこともしっかり記憶し、絶妙のタイミングでその顛末を確認する。
一ヶ月ほど前に発注した商品。
あまり扱い量が多くないため受注生産になり、納期に時間がかかると業者から言われていたものだ。
私は日々の雑務に追われ、すっかり発注そのもの忘れていた。
時間がかかると言われた時点で、記憶が忘却ミルフィーユの層の中に閉じ込められ、そのまま遥か彼方へスルーされてしまったのである。
「五郎さん、あの発注の件どうなりました?」
・・・・・。
しばらく何を聞かれているかわからず、何を答えて良いものか思案に暮れ、記憶のミルフィーユを咀嚼しているうち、ようやく一ヶ月前の件の発注を思い出した。
酸欠金魚の如く口をパクパクさせて返答に窮した私を見て、彼女は眉をハの字に釣り上げ、ため息混じりに小言を吐き散らかす。
私はしっかり覚えているのに、すっかり忘れているお前が悪い!という論調に、理解は示せるが納得はできない。
誰だって、日々起こる出来事の一つ一つを鮮明に記憶することなどできないのである。
このようなやりとりを、数十人いる部下全員にやるのである。
自由自在に取り出せる彼女の記憶量は、ペタバイトクラスのSSDを軽く凌駕する。
これはもう驚嘆に値すると言っても過言ではない。
彼女が未だに独身を貫き仕事に邁進するのは、死語のようなTVドラマのセリフではないが、仕事と結婚したといってもまぁまぁ納得できたりするのである。
そんな彼女が体調を崩した。
2~3日かなりの勢いで咳き込んでいたのである。
もともと気管支炎をこじらせて禁煙を成功させたと豪語していただけあって、発熱もなく、体調も悪くないという理由で通院もせず出社を続けていた。
折しもインフルエンザとノロウィルスが組織内に蔓延し、ただでさえギリギリの人数でこなしていた業務が臨界点ギリギリの状態を迎えていた矢先である。
組織の長たる人間が多少の咳で仕事に穴を開けるワケにはいかず!とばかりに、ゴホゴホとマスクも外れんばかりに咳をブチかましながらの奮闘であった。
仕事ができるとはかくありなん!とばかりの姿勢に、ちょっとでも体調が悪くなると有給を申し出る自分が恥ずかしくなっていた。(それでも有給はしっかりいただく)
だが、それも唐突に終わりを告げた。
相変わらず咳は止まらなかったようだが、そのうえ味覚まで失ってしまい何を食べても味がしなくなった段になって、ようやく病院に駆け込んだのである。
診断の結果はノロでもインフルでもなく、コロナであった。
人手不足を補わんとするばかりに無理して出社していたのが却って仇になった。
彼女の体に巣食っていたコロナウィルスは、豪快な咳とともに、狭い事務所の中を縦横無尽に飛び回っていたのである。
部下の仕事ぶりに小言を挟むのが常態化し、辟易するほどにうるさい人とのレッテルを貼られているのである。
彼女がコロナに罹患したニュースは、連絡があったその日の午前中に全員に知れ渡ることになった。
「普段から仕事のことやら健康管理にあれだけウルサく言ってた張本人があれ?なんなの?」
「自分の健康管理もキッチリできてないのに出社して菌をバラまいてんだから呆れてもモノも言えない!」
などと、ここぞとばかりに出てくる罵詈雑言の集中豪雨。
本人不在ゆえに飛び交う呪詛の言葉に、さすがに少し気の毒になった。
別に人格者になれと言っているのではない。
人間など所詮は感情の生き物なのだから、その場その場の心理状態で、口から出てくる言葉も変幻自在である。
慈愛に満ちた温かいものにも、氷のように冷たく鋭利な刃物のようにもなる。
怒りに任せた小言や叱責の言葉は、立場が逆転すれば特大ブーメランのように自分に帰ってくる。
だからなおさら気をつけねばならぬと自戒する。
年上にはフレンドリーに、年下には丁寧に話すのが私のモットーだ。
怒りに任せて怒鳴り散らかすなどもってのほかなのである。
一定期間を経てまた彼女は職場に復帰するだろう。
どんな顔をして復帰するのかはわからない。
仏頂面を決め込むのか、ごめんねテヘペロ!みたいな感じになるのか。
色々言いたいことはあるのだが、今回のことは忘却のミルフィーユの中に畳み込み、すっかり無かったかのように忘れて出迎えてあげるのが大人ってものじゃないかなと、思うのである。