引き換えにするもの

早すぎる

机の上、小さな池のような水たまりができている。
パソコンのキーボードを打つために置いた腕の形そのままに、汗でできた小さなそれは、早すぎる夏の到来を形を変えて告げていた。

観測史上最速の梅雨明け。

令和四年の夏の到来は、まだ六月を一週間ほど残した時点で早々に気象庁から発表された。
それにしても、いかんせん早急にすぎる。
梅雨入り当初は例年のような長雨になっていたものの、ある日を境にしてパタっと雨音が止んだ。
グズついた鈍色の空が連日続き、水分を大量に含んだ空気は容赦なく身体にまとわりついた。

妙齢見目麗しい女子ならいざしらず、小遣いをねだる子供と、梅雨時のたっぷりと湿気を含んだ空気にまとわりつかれるのは本当に気分が悪い。
自分の放屁もそうだ。
鼻先で臭いが滞留し、身動ぎすれども一向に霧消しない。

低空飛行を続けながら下降線をなぞる日本の株価に反比例するように、日々感じる不快指数は上昇の一途を辿った。
額からの汗が小鼻の輪郭をなぞるように唇から顎まで伝い、ポタリ、と、机の上に新たな水たまりを作り始める。
物置から引っ張り出してきた扇風機のスイッチは「最強」の位置に固定されている。

タイムサービスがあるからと、オープン早々に喜び勇んで入店したキャバクラ。
だが、開店早々の時間帯に人気の嬢などいるはずもなく、限りなく個性的で芸術的な顔立ちをした、本当の意味での「お姉様方」が隣に座った時のように、今年の夏は場違いなくらい早急に、日本列島に「コンニチワぁ~!」と現れてしまったのだ。

今年の夏は長く、暑くなりそうだ・・・・・。
少しも涼しくならない室内の温度計を睨みながら、あの時のキャバクラでの滞在時間が否が応でも思い出された。

物事にはちょうど良い時期、タイミングというものがある。
早めを推奨されるのは、貯金と人間ドック受診と薄毛対策の3つだ。
梅雨明けとキャバクラの入店時間に至っては、早すぎて良いことなど一つもないのだ。

Wの悲劇

厄災は忘れた頃にやってくる。

めったに訪れることのないソレは、日常生活の中において存在そのものが忘れ去られている。
いや、存在を認識すること自体に、はっきりとした嫌悪を感じるのだ。
自己意識の中に、そのための場所をあえて確保しておけるほど、心に余裕のあるものなどいない。
ガサ入れ時の刑事よろしく、いきなりチャイムも鳴らさず、玄関先からドカドカと土足で上がり込んで来ることなど絶対にないと思っている。いや、そう信じて疑っていないのだ。
厄災と名のつくものとは一生関わりたくない、縁を切りたいという切なる願いから、朝と晩には欠かさず「安井金比羅宮」様からいただいた御札に手を合わせている。

だが、そんな忌むべき厄災が、忘れた頃にシレっと現れたのだ。
何の前触れもなく、唐突に、突然に。
その来訪が唐突であればあるほど、夏の炎天下に落とす影のようにはっきりと黒く、邪悪なる意思を持って我が身に襲いかかってくるように感じられる。

しかも今回の厄災、こともあろうにダブルで襲いかかってきやがったのである。
いや、一つの厄災の火種がさらなる厄災を呼び、二次災害的に延焼してしまったと言った方が正しい。

まずひとつ目の厄災が「エコキュートの完全死亡」というものであった。
ノリと勢いで家を新築してから10年以上が経過し、徐々に家のアチコチに修繕が必要になってきた。
幸いにも、耐用年数を経過した白物家電は一斉に不調をきたすことなく今まで生き延びてきてくれている。(代替わりはもちろんしているが)
故障するにもお行儀よく、まるで順序を守っているかのように、洗濯機が壊れれば冷蔵庫、その次にはクーラー、その次には扇風機・・・・・と、順々に故障していく。

リビングに鎮座している大型液晶テレビに至っては、画面左側、縦一直線にドット欠けが発生してしまっており、8対2の割合で画面が分割されたようになっているが、情報を伝達するのに何の支障もない。
昔のブラウン管テレビが壊れる寸前など、それはもう酷いものだった。
画面全体が砂嵐を映し出し、音声だけがはっきりとスピーカーから流れてくる。
新しいテレビを買うか?それとも修理するか?
家族会議は一向に落としどころが見いだせず、視線は食卓に注がれたまま、咀嚼音とテレビのスピーカーからの音が果てしなく耳に届くという、なんとも貧乏くさくてシュールな食事風景を一週間以上経験したことがある。
それに比べれば、画面のドット欠けくらいはなんともない。

話を戻そう。

完全にお亡くなりになったエコキュートは我が家に激震をもたらした。
住宅の付帯設備の中でも最大にして最高額のシステムが突如として息を引き取った。このインパクトと衝撃度合いはハンパではなかった。
風呂場に設置してあるリモコンのボタンを何度押そうが、電源の再投入を何度も試みようが、お亡くなりになったエコキュートはダンマリを決め込んだまま沈黙している。
バスタブのお湯張りが終了した時のマヌケな電子音も、もはや今は聞くことも出来ない。

ただでさえトットと明けてしまった梅雨を待つかのように、右肩上がりで気温は急上昇している。
値上げラッシュ著しい現在、おいそれと容易く6月からエアコンなど点けられはしない。
東電からの電気代アップのアナウンスの下、妻からは「今年も頑張ってノーエアコンですごしましょう!」と、夏休みの課題よろしく大号令が発令されたばかりだったのだ。
(妻のパート先は凍えるほどにクーラーが効いていて、毎日ひざ掛けを持参していることは不問に処す。)

身体に薄い膜が一枚へばりついているのでは?と思わせるほど、全身から噴き出した汗が乾き、またそこに新しい汗が噴き出す。日の高いうちはそれを何度も繰り返すのだ。
老廃物がクロワッサンのごとく、目に見えない層になって体表に折り重なっていく感覚がある。
扇風機全開など焼け石に水。無いよりはあったほうがマシなレベルであるのは言うまでもない。

そんな中での風呂なし生活強制突入は、日々の生活で唯一の癒やしを強奪されたに等しかった。
バスタブにゆっくり浸かり、あ~でもない、こ~でもないと、妄想の限りを尽くす「妄想族」に加入する権利を剥奪されたのだ。
小一時間ほど風呂場で妄想するのが日課になっている我が身において、これほどの拷問がほかにあるであろうか?

難航する代替機の獲得

とにかく現状を打破するため、ハウスメーカーの担当やら、エコキュート製造元のメンテナンス会社に連絡を入れるも、浴室リモコンに表示されたメッセージが絶望的なモノであり、なにをどうやっても修理することが出来ないことを了承させられるだけであった。

要はシステムまるごとお取替えするしか方法がなく、なおかつ、半導体部品の調達が非常に難航を極めており(本当に戦争が一刻も早く終結してほしい!)、現在は商品がメーカーにもまるっきり残っていないという、まさに令和に再現されたヘレン・ケラーのごとき回答が返ってくるという状態だったのである。

修理はできねぇ、モノは在庫切れ・・・・・。
商品再入荷の目処はまるっきり立っておらず、下手をすれば2~3ヶ月待ちになるやも知れない。
これから暑くなる一歩だし、そもそもまだ6月だ。
家族全員がホームレスのごとく薄汚れ、異臭を放つ様が頭をよぎる。

半狂乱に近い状態になり、普段の仕事の3倍以上の集中力でネットを検索し、ようやく近場のリフォーム会社を見つけることができた。
チマチマとメールやサイトでの問い合わせなんぞやっておれず、直接電話をして交渉すること10分。

地獄に仏。
なんと!お亡くなりになったエコキュートユニットの後継機種の在庫を、このリフォーム会社は奇跡的にも1台保有していたのであった。
とるものもとりあえず、まずはその虎の子の1台を押さえてもらう。
どの業者に連絡しても、「在庫切れ」と「商品入荷未定」の2パターンのフレーズしか返してくれなかったのだ。
ア・バオア・クーにおけるアムロ・レイではないが、「僕にも入れるフロがあるんだぁ。こんなに嬉しいことはない!」と、独り言のヒトツもつぶやいてみたくなるのも当然であった。

引き換えにするもの

艱難辛苦の末、真新しいエコキュートユニットは3日後にその勇姿を現した。
最新型になっているとはいえ、貯湯タンクの容量は変わっていないので、その大きさに旧型といささかの違いは見受けられない。

空っぽのタンクに目一杯の湯を貯めるには、7時間ほどの時間を要する。
設置自体は午前中に完了したので、我が家の生活サイクルである21時の入浴の頃には、すっかりタンクには波々とした湯が貯まっていることだろう。
浴室に設置されたリモコンもデザインが一新され、とてもスタイリッシュになっている。
現在時刻を合わせるためにいくつかボタンを触ったが、その際に流れる電子音も、耳障りの良い音色に進化していた。

勝ったのだ。
これでまた「浴室妄想族」の生活を享受することができる。
自宅の風呂に入れない3日間はスーパー銭湯に通い詰めたのだが、料金が高く、なにより往復するのが面倒くさい。おまけに時間的拘束もつく。
本当に内風呂は良いとしみじみ思う。

だが・・・・・。
エコキュートより少し前にお亡くなりになったベッドルームのエアコンの新調は、涙をのんで諦めざるを得なかった。
エコキュートの交換設置工事代金は余裕の40万円オーバー。
エアコンのために貯めておいたお金は、ものの見事に木端微塵に雲散霧消した。
第一の厄災から飛び火した第二の厄災とは、まさにこのことなのである。

令和四年の夏。
快適でぐっすり眠れる涼し気なベッドルームと引き換えに、快適な浴室妄想族ライフを手にしたのだった。
何かを手に入れたければ何かを諦めなくてはならない。
二兎追う者は一兎も得ず。

さまざまな言葉で自分を納得させようとしても、寝苦しい夜は容赦なく今夜も襲ってくる。
引き換えにするもの・・・・・。

満々と湯をたたえたタンクから、轟々と保温のための音が低く夜に響く。
タンクから発せられる熱気が寝室まで届いてくるようだった。

 







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