今年のハロウィンは静かであった
今年も既に11月半ば。
例年、眉をひそめるほどの乱痴気騒ぎで繁華街を騒然とさせる一夜の仮装パーティーも、今年はコロナの影響か、それとも既にオワコンとなりその使命を果たしたのか、すっかりと大人しいものだった。
ミニオンズのキャラクターに扮した若者が、普通の服装をした人々で溢れかえる渋谷のスクランブル交差点で浮きに浮きまくり、半時も立たないうちに足早に帰路についたとTVのニュースは伝える。
半笑いで半べそに近い表情を浮かべたあの若者。
もう二度とコスプレをして渋谷の街に繰り出そうとは思うまい。
何よりコスプレのクオリティーが低すぎて、あれではミニオンズなのか、水中メガネをかけたバナナの如き黄色い男なのか判別しかねる。
やるならもっと気合を入れて欲しい。
そんな状況下、インスタグラムには「鬼滅の刃」のコスプレを嬉々として披露するツワモノが多数いたが、いかんせん、人気芸能人がやるソレとはクオリティーの差が歴然としており、目をひん剥きながら竹を咥え、両手で爪を立てるようなしぐさをすれば「禰豆子」になったつもりの女子の写真で溢れかえっていた。
映画の大ヒットも手伝ってか、煉獄杏寿郎のコスプレをしていた者もたくさん見かけたが、やはり、学生服にマントを羽織った金髪の男という、なんともトホホなクオリティーのコスプレが目立っていた。
これではただの変質者である。
街を歩けば、一発で職務質問の雨あられであろう。
世のコスプレイヤーよ、インスグラマーよ、もっともっと唸るほどのクオリティーで愛するキャラクターを具現化してほしい。
さすれば、喜んでインスタグラムであなたをフォローさせていただく。
コンビニの袋に猪の顔を描き、それを頭から被ったブリーフ一枚の男が目の前に現れたとしたよう。
その男が「俺は伊之助だぁあああああああ!」と雄叫ったところで、まごうことなき変態である。
夕食の支度をしている妻から、さきほどまでグラグラと煮立った鍋に突っ込んでいた菜箸から一閃!
「愚か者!その汚い出っ張った腹を晒すな! なんだそれは、伊之助のつもりか! 大うつけが!」と、熱々の煮汁を何度も浴びせかけられたのだ。
公衆の面前で伊之助のコスプレはできぬと思い、妻の前で披露したのが間違いであった。
その日の夕食が、一汁一菜の精進料理の如き寂しい食卓になったのは言うまでもない。
もっとコスプレを精進せよとのことなのか、どうしてメインのおかずを減らされたのか、未だもって妻の真意は測り得ない。
私にどうしろと言うのだろうか?
形骸化した年賀状を断捨離!
ハロウィンが終わればクリスマス、クリスマスが終われば年末の準備。
11月になると街はその表情をクルクルと変え、否応なしに、年末の慌ただしさを木枯らしと一緒に届け始めるようになる。
この時期になると始まるのが、年賀状のテレビコマーシャルと、百貨店やデパートの書店・文具店での手帳の特設販売コーナーだ。
はっきり言ってしまおう。
今年は去年に引き続き、年賀状は親しい友人と親戚以外には出さないと決めている。
バカバカしくなってきたのだ。
毎年12月になると慌てて年賀はがき(インクジェット専用)を何十枚と買い込み、ネットから来年の干支をあしらったデザインを選び、その画像データをダウンロードする。
年賀状印刷ソフトにそのデータをコピペして、住所録とともに印刷。
年末も押し迫った中なので、もう完全にやっつけ仕事。印刷してただ投函するだけ。
年が明けて届いた年賀状を見ても、どれもこれも私が出したものとほぼ同じようなデザイン。
夏までにはすっかり処分されてしまう運命なのだ。
昔の年賀状は違っていたと記憶している。
その一枚一枚を丁寧に手書きし(ハンコなどを使って手抜きはしていたが)、年始の挨拶や、何かしらの近況報告なども一緒に添えていたのである。
この年賀状の作成風景を一変させたのが、理想化学が発売していた「プリントゴッコ」だった。
どのような原理だったのかは省略させていただくが、一般家庭で気軽に、シルクスクリーン印刷による、大量の年賀状作成を可能にした画期的製品だったのだ。
これにより、肉筆での年賀状作成は一気に過去のものとなり、年末の慌ただしい時期にも年賀状制作は苦にならなくなったのだ。
今ではパソコンとプリンターにその役目を奪われてしまったが、プリントゴッコの登場以来、年賀状自体のあり方が大きく変わってしまっと思うのは私だけだろうか?
(プリントゴッコ自体は素晴らしい製品で、ディスるつもりは毛頭ない)
やっつけ仕事で、ただプリンターから印刷されただけの年賀はがきを出すだけ。
あまりに血が通っておらず、もらった時のありがたみが紙ほども薄くなってしまった年賀状。
これなら出さないほうが良くないか、と思い始めたのだ。
だって、出す方も出される方も、どちらも届いた年賀状など見ていないからだ。
元旦の朝。
配達された年賀状をチラっと見やり、「あ、あの人から年賀状来ちゃってる、出してなかったヤベェ!」と、慌てて余った年賀はがきを印刷。住所と宛名だけ変えて印刷して投函する。
年末年始の休みが明けるまでに配達されればいいんだけどなぁと、不謹慎な思いにかられる。
などというのが今までの正月三が日の当たり前の風景だった。
止めて正解だった。
もう年末の慌ただしい時間の中、眠い目をこすりながら、パソコンとプリンターと格闘することが無くなったのだ。
形骸化してしまった年賀状のやり取りを断捨離する。
そのほとんどが会社関係の人間だ。
本当に年始の挨拶をしたい人だけを厳選し、干支のデザインは印刷すれど、しっかりと肉筆で挨拶と近況報告などをしたためて、その人を想いながらポストに投函する。
これが本当の年賀状のありかただと思うのだ。
普段逢えない人を想いながら、お互いに息災に生活していることを確認し合う。
メールでもラインでもいいじゃんか!と思うのだが、それはそれで、ただ印刷だけして投函した年賀はがきと何ら変わらない無味乾燥としたものがある。
肉筆だから良いのだと思う。血が通っている気がするのである。
年賀状の文面から、多少なりとも息遣いが聞こえてくるような気がするのである。
惰性でやっていたことに疑問を持ち、本当にすべきことを丁寧に行う。
昔は不便で仕方のない世の中だったけれど、一つ一つに人の手が介在し、血が通っていた気がするのである。
断捨離すべきは形骸化し、やっつけで仕方なくやってることなのだ。
私の伊之助のコスプレは形骸化していなくとも、妻からは「金輪際やるな!」と、一刀両断のごとく断舎離されてしまった。
そのうち私の存在自体も断捨離されそうである。