全くわからない女心

ショーケースに並ぶ宝石

手が触れた途端、ヒヤっとするガラスのショーケース。
コートのポケットで温めていた手に、びっくりするような冷たさが一瞬で伝わる。

およそ3~6℃に保たれた何段かで構成されたその中に、色とりどりの甘い宝石たちが並んでいる。ケースの中の空気はシンと冷え切っているのだろうが、濃密で甘美な香りが、その中にたっぷりと広がり溶け込んでいるだろうことは、ひと目見ただけで容易に想像できた。

真っ赤で大振りな一粒のイチゴを載せた純白のショートケーキ。
艷やかな光沢を放つ表面に、煌めく星々を散らしたかのような細かい金箔をあしらった、まるで小宇宙を思わせるようなダークチョコのムースケーキ。
まだ誰も歩いていない新雪の上、その存在を鮮烈にアピールするかのように、数個のブルーとカシスのベリーが散りばめられたレアチーズケーキ。ケーキの素地とベリーの色とのコントラストが見事な一品に仕上がっている。

ハロウィンが終わり、木枯らしが街行く人々のコートの襟を立ち上げさせ、デパートのエントランスにクリスマス・リースが飾られるようになる頃、妻はこの世に生を受けた。
もっとも、妻がこの世に生を受けた数十年前は、ハロウィンはその名前はおろか、存在すらもまだ日本にはもたらされてはいない頃だった。

コロナ禍以前、東京まで通勤していた頃は、仕事帰りに品川駅エキュートの有名パティスリーでちょっと贅沢なワン・ホールのケーキを買っていた。行き過ぎる駅のコンコースや通勤電車内、最寄り駅から自宅近くまでのバス停までの車内、とにかく箱の中のケーキを潰してしまわないかと、妙なダンスのステップを踏むかのように、身体をくねらせて細心の注意を払って持ち帰っていたものだった。

だが、今年の妻の誕生日は一変していた。
今年は春以降、私はずっと在宅勤務で自宅に籠もっているのだ。通勤することはおろか、半年以上も公共交通機関を利用しない日々が続いている。
従って、妻が何よりも楽しみにしている品川駅エキュートで購入するホール・ケーキは、誕生日のその夜、食後の食卓にその姿を現すことはないのである。

家にいるってそんなに罪なの?

私はラクをしていると思われている在宅勤務者。

東京まで通勤していた頃、妻は今よりなんとなく優しかったような気がする。
朝6時には起床し、前日の疲れを二宮金次郎のごとく背中と肩に目一杯背負い、足を引きずるようにして最寄りのバス停に向かう姿を、妻はことのほか哀れに思っていたのだろう。
玄関先で掛けられる言葉も、心なしか、今よりも愛情という名の熱がこもっていたような気がするのだ。
「行ってらっしゃい!」のこの一言。
ここ半年は妻からではなく、パートに出かける妻に、私がかける言葉となってしまったのだ。

在宅勤務を良いことに、TV会議の無い日などは、髪の毛はボサボサの白髪だらけの超サイヤ人状態で、ベッドからむっくり起き上がったままの格好で机に向かって仕事をしたりしてしまうのだ。
しっかりと身支度を整え、お弁当を作り、マスクをつけるので目元だけはバッチリとメイクした妻は、パートに出かける朝はすこぶる機嫌が悪い。

「あぁ~いいわねぇ・・・・・そんなホームレスみたいな格好で仕事できるなんて。本当に夢みたいね。もうコロナ太りで今まで着てたスーツなんて入らないでしょ?お腹・・・・・浮き輪みたいになっちゃって!!」とまぁ、こんな調子でジェニーはご機嫌ななめ。
抱き合って眠ることなど到底許してはもらえない。
どうしたら気が収まるのだろうか?

そんな中、予定より早めに仕事を終わらせた私は、ウォーキングも兼ねて、最寄りの駅までいそいそと出かけたのだ。そう、妻のご機嫌取りのためのバースデー・ケーキを買うために。

この日は初冬とは思えぬポカポカとした小春日和。
薄手とはいえ、コートに身を包んで出かけたことを後悔したのは家を出てから15分もしないうちだった。
・・・・・暑い。とにかく暑い。
ウォーキングをして身体が温まっていたのはもちろんだが、なにより、夕方の日差しがことのほか暖かく、コートの中の温度が一気に上昇してしまったのだ。
コートの下はTシャツ一枚という暴挙に出てしまった手前、いくら暖かいとはいえ、真夏を思わせる薄着でのウォーキング続行は神経を疑われてしまう。
額から大汗をかきながら、コートの前をフル・オープンにして、とにかく駅前のデパートまで黙々と歩くこと30分。ようやく目的の洋菓子店に着いたのであった。

ホール・ケーキを買えぬ悲しさよ

コートの両ポケットに手をねじ込み歩いていたせいで、洋菓子店のショーケースに手を触れた途端、心地よい冷たさが手の平から火照った全身に伝わった。
しばらく呆けたようにショーケースの冷たさを楽しんでいたところ、明らかにいぶかしい目つきをした女性店員に、「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」と声をかけられた。
マスクと帽子で完全防備してると油断してはいけない。その目はハッキリと、ショーケースに手をついたまま恍惚の表情を浮かべたおっさんを、思いっきり不審者扱いしていたことなどお見通しだ。
マスクに隠れたその口は、思いっきり、忍者ハットリくんのごとく「ヘ」の字に曲がっていたのは想像に難くない。

ハッと我に返り、ショーケースに並ぶ甘い宝石たちをしげしげと眺めた。
本当はホール・ケーキを買いたかったのだ。直径20センチのスポンジの上、生クリームやチョコレートでデコレーションされたスイーツの夢舞台。
バースデー・メッセージが書かれた小さな板チョコや、砂糖菓子で出来た真っ赤な薔薇が、その小さなステージの上で競演を繰り広げるのだ。
女子でなくとも、甘党のアラフィフおやじをうっとりさせるだけの、耽美な世界がそこにはある。
スイーツは絶対的な正義であり、また、美しいのだ。
何より人を幸せにする。

だが!
在宅勤務を理由にお小遣い減額を厳命され、あまつさえ、半年以上も一ヶ月・一万円生活を余儀なくされている令和のジャン・バルジャンに、どうやってホール・ケーキを買う金があるだろうか?
我が家のマリー・アントワネットは、「お小遣いがなくてお腹が空いたなら、ダイエットと思えばいいじゃない。オホホホホ~」とのたまうのだ。
既に半年前に断頭台の露と消えた私には、手持ちのお小遣いの額ではどうやってもホール・ケーキを諦めざるを得ず、泣く泣く、先のショートケーキ、ダークチョコのムースケーキとレアチーズケーキを買うに至ったのである。
(一つは母親の分である)

どないせぇっちゅうんだ!

ケーキを買って帰宅。妻の喜ぶ顔を楽しみにしつつ、そっとケーキの入った箱を冷蔵庫の中にしまった。
美味しいものを食べることが大好きな妻には、もちろん今日のバースデー・ケーキのことなど一言も話していない。私が在宅勤務になっているので、今年はケーキは口にできないものと思っているのだ。
ちょっとしたサプライズも、在宅勤務で時間的に余裕があるからできるのだ。
これが通勤しているとなると、拘束時間の関係でこうは行かなかっただろう。

パートから帰宅した妻は、着替えるのもそこそこに夕食の準備を始めるために冷蔵庫を開けた。
その途端。
「あ、わぁ~!ケーキだぁ!五郎、買ってきてくれたの?」
と、弾けるばかりの笑顔で両手にケーキの箱を持ち、私の部屋まで入ってきた。

「うれしい~!今日が私の誕生日だってちゃんと覚えててくれたんだね。ありがとう!」

飛び上がらんばかりに喜んだ妻は、早速、冷蔵庫から出したケーキの箱を開けて中身を確かめようとした。

その時・・・・・。

「え?ホールじゃないの?しかも3種類バラバラのケーキ。ああああああ、どれもこれも美味しそうで選べないじゃない!どうしてこういうことすんの?私が優柔不断だって知ってるよね?ホールケーキならどこを食べても同じ味なのに、種類が違うケーキだと、どれを選んだらいいか迷うじゃない!!きぃぃぃぃぃぃ~!」。

・・・・・どうやら、我が家のマリー・アントワネットはまたもご機嫌ナナメになってしまった。
妻が優柔不断な性格だと知ってはいたが、こういう展開になるとは夢にも思っていなかった。
夕食の支度をしながら、妻はブツブツと言っている。
「どれがいいかな?やっぱりダークチョコ?う~ん、チーズケーキも捨てがたい」。

妻よ、本当ならホール・ケーキを買ってあげたかったのだ。
だが、ジャン・バルジャンにはその財力が無いのだ、察して欲しい、わかって欲しい。

「ホールケーキ、要求するなら金をくれ!」。
心の中であどけない安達祐実嬢が絶叫していることを妻は知らない。

私の心は家なき子。
空とボクとの間には、今日も冷たい涙雨・・・・・。

 


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