休日の憂鬱

有給休暇すら自由にとれない

溜まりに溜まっていた有給を消化するため、今日は会社を休んでいる。

「働き方改革」により休みを取りやすい環境が整ったのと同時に、有給を残すことを「悪」とする旨が就業規則にハッキリと明文化されてしまったため、有給を次年度に繰り越す自由が行使しづらくなってしまった。
ほんの数年前までは休むことをいとわず、ガッツリと馬車馬のように働くことを奨励された時代があったが、それは遥か彼方の昔の話。今は自分に与えられた「有給休暇」という権利すらも、己の意志でコントロールして取得することが難しくなってきているのだ。

業務都合上、どうやってもスケジュールの調整が難しい時期に限って、総務からの有給休暇取得厳命メールが送信されてくる。本当にうっとおしい。
「○○月○○日までに、有給休暇○○日分を必ず取得するように!」
こちらの都合など考慮してくれるはずもなく、一方的に無慈悲なメールが送信されるたび、大きなため息を付く課長連中は少なくない。
この世の中に、中間管理職ほど有給が取りづらい役職は他にないといっていい。

業務が忙しくなかったら、金曜日と翌週の月曜日に有給を取得し、リッチに四連休をスケジュールにブチ込みたいところだが、そうは問屋が卸さない。
年末年始やゴールデンウィークの大型連休を取得するのに、業務調整とスケジュール管理がどれほど大変なことか。
想像していただきたい。自分自身の調整をするのも大変なのに、これがプロジェクトメンバー数名分ともなると、もう収集がつかない。
やるだけ無駄で、調整する前からカオス状態で破綻するのが目に見えている。
誰だって週末と組み合わせて、少しでも多めに休みを取りたがるからだ。

アチラを立てればコチラが立たず。必死の思いで調整したとしても、必ず文句や再調整を願い出る輩が出てくるのである。家族旅行の予定を立てていて、もうチケットは手配済みなのでキャンセルが効かないなどと言われても、それならばどうしてもっと早くソレを申告しないのだ!と憤ってしまう。
調整役の苦労など、どこ吹く風なのだ。

今年の正月休みが超大型だったがゆえ、調整には困難を極めた。
メンバー全員を休ませるのはもちろんだが、年末進行の作業が遅れに遅れていたので、それをどうやってリカバリーするかで、胃と頭が毎晩のようにシクシク痛んだ。
それでもどうにか調整に調整を重ね、なんとか年末年始の大型連休を享受することができたのだ。
これはもう奇跡に近かった。
かなりトリッキーでアクロバティックな調整を行ったが、メンバーがしっかり休めたので良しとしておきたい。

そのような状況により、伸ばし伸ばしになっていた有給休暇の取得を、バレンタインデーの今日、2月14日に行使するに至ったのである。

チョコなどいらぬ。

三連休取得という高揚感と無敵感だけで、どんぶり飯は三杯イケる。
それだけ食欲を増進させるだけの効能が連休にはあるのである。
これが面倒な調整などせず、もっと気楽に取得することができたらどれだけ嬉しいか・・・・・。
曇天模様の空を見上げながら、時折見せる太陽の暖かさを感じつつ、妻の淹れてくれた出涸らしのコーヒーを飲みながらしみじみと思ったのである。

やっぱり不審者?

せっかくの連休、いつもの週末のようにダラダラしていてはもったいない。

普段の週末はウィークデーの疲れを取るため、ただひたすらに惰眠をむさぼり、身体を休めるという大義名分のもと、ゴロゴロとコタツの中でトドの如く寝ているだけなのだが、今日はウォーキングに出かけようと木曜日の就寝時点で決めていたのだ。

普段は仕事のため、ウィークデーに自宅の近所を徘徊ウォーキングすることなど皆無だったし、考えもしなかった。
だが今朝は違う。朝食を摂って午前10時を回るころには身支度を整え、買ったばかりのウォーキングシューズを履き、勢いよく玄関のドアを開けたのである。

踵から地面に着地。そして、ふくらはぎの筋肉をしっかり使い、つま先で地面を蹴り上げる。
この動作を意識しながら繰り返し、曇天のハッキリしない空の下、ただひたすらに歩くことに集中する。
今日は日差しこそ少なかったが、気温はとても暖かく小春日和。
ダウンジャケットを着込んで出掛けたのを後悔するくらい、途中から思い切り汗をかいた。

ウォーキングを開始して15分くらい経過した頃だろうか、急に腰が悲鳴を上げ始めた。
普段からデスクワークが中心で、会社にいる間に行う動作といったらトイレに行くくらいだ。
加齢による体力の低下を嘆いていたが、普段から積極的に運動していないことも原因の一つであると痛感し、歩きながら自戒し猛省する。
人間、食べることと動くこと、排泄することが出来なくなったら終わりだと親から聞かされて育ったが、本当にそれは間違いではないとしみじみ思う。

余りに腰が悲鳴を上げるものだから、途中、歩くことを止め道端でしゃがんでしまった。
我ながら情けない。
50歳そこそこでこの有様だったら、これから先どうしたらいいのか?
60歳を超えたら、走ることはおろか歩くこともままならず、電動カートで爆走するようになるのだろうか?
それはそれで楽しそうだが、自分の足で大地を踏みしめることが出来なくなると思うと、「老い」の他に「死」をも意識せざるを得なくなりそうで怖い。

10年以上前に大病を患い、死の淵を彷徨ったことを嫌でも思い出す。
意識は朦朧としていたのだが、とにかく激しい痛みに悩まされた。
あれほどの苦痛に悩まさせるくらいなら、いっそのこと殺してくれ!と真剣に思ったものだ。
「死」よりも「痛み」に恐怖してしまうのは嘘ではない。

道端にしゃがんでしばらくしていると、通ってきた道の後方から親子連れがこちらに向かって歩いてきた。
3歳くらいの小さな可愛らしい女の子を連れた、これまた可愛らしい若いお母さんだ。
手を繋ぎ、揃って童謡を唄いながら歩いてくる様子は本当に微笑ましい。
腰の痛みが和らぎ、こちらの顔もほころんでしまう。

と、その若いお母さんが急に私との距離を空けたのだ。
それも思いきり分かりやすく、明らかに不審者から我が子を守るかのごとく、大きく私から距離を取ったのだ。
その際、あれだけ楽しげに唄っていた童謡のメロディーはピタリと止まっていた。

そそくさと私を避けるように小走りに通り過ぎる親子。
あぁ、金曜日、普通のウィークデーに道端にしゃがみ込んでいるアラフィフおやじが目の前に現れたのである、どうやっても不審者にしか見えないだろう。
もし私が彼女の立場なら、「大丈夫ですか?」と声を掛ける前に、同様に小走りに避けて通り過ぎる。

分かりすぎるくらいに理解できた。
金曜日の真っ昼間、アラフィフのおやじはウォーキングなんぞしてはいけないのである。
ましてや道端で座ろうものなら、100パーセント不審者決定だ。
忍たま乱太郎のオープニング、「勇気100%」ならぬ、「不審者100%」だ。
「もう100%病気~、通報するしかないさ~!」と唄われても仕方ない。

ガッツリとした腰の痛みを抱え帰宅。
ふとテーブルを見ると、妻からのチョコレートが何気なくポンと置いてあった。
もちろん手作りなどではない。近所のスーパーで購入した普通の板チョコだ。

妻に話しかける。
「あのね、ウォーキングしてる最中に腰が痛くなっちゃってさぁ。しゃがんで我慢してたら、親子連れに不審者と間違われてゴミみたいに避けられたよ」。

何も返事をしない妻と、台所から聞こえる昼食の支度の音。
口に放り込んだチョコレートがやたらとほろ苦かった。

やっぱり慣れないことはするもんじゃない。

次、連休が取れたら家で大人しくしていようと、固く心に誓ったバレンタインデーであった。


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