ヘタレはヘタレ

「キツくなってきてしまいました・・・・・・」

スマホの画面に表示されたLINEメッセージは、かつてエクストリームウォークで100kmを共に完歩したマリオからの緊急事態を告げるものだった。

トレイル・ラン。
肉体と克己心の限界に挑み、脳内麻薬をドッピュドッピュとほとばしらせランナーズ・ハイの境地に入らんとするドM御用達のスポーツである。
初老のメタボおやじには、単語の字面を見ているだけでゲンナリするスポーツだ。

このスポーツをなによりの趣味とし、荒れた山道をひた走ることに無上のエクスタシーを感じている異常な性癖を持つマリオ。(トレイル・ラン愛好者の方に悪意はございません)
毎年のように生活習慣と食生活を健康診断で指摘されつつも、一向に改めようとしない私にとって到底理解できるシロモノでないことは言うまでもない。
普通にウォーキングするだけでも辛いのに、何が楽しくて急勾配の山道を、息も絶え絶えに何時間も走らねばならぬのだ。
山は見るものであり、山中の温泉にだらしない体を浸からせるために存在するのであって、間違っても走るためのものではない。
そこを、己の足で尾根伝いを走破するなど、湯気の立つ白米にチョコシロップをかけて食わされるようなものだ。
絶対にイヤだ、ダメだ、ムリだ。

その鉄人であるマリオが救難信号を送信してきたのだ。
これはただ事ではないと直感し、仕事なんぞ放り出し、廊下のちょっとした踊り場で音声通話のボタンをタップしたのは15時を少し過ぎたあたりだった。

 

 

「どしたん?何があった?」
会社と同僚の悪口、そしてムフフなエロっぽい話に関しては滑らかに動くマリオの唇も、こと、自分自身のメンタル崩壊の危機に瀕しては途端に重くなってしまう。
前述の通り肉体へのストレス耐性は目を見張る物があるというのに、外的要因からの攻撃に対し、彼のメンタルは豆腐のような脆弱さしかないのだ。
いわゆる「ヘタレ」である。

よくよく話を聞いてみると、いま流行りのITによる業務効率化(DX)の取り組みの一環として、全中堅社員を対象とした社内研修に強制的に参加させられているという。
基礎的なITの智識と技術は持っていたのだが、どうにもこうにも講義の内容についてゆけず、なおかつ研修最終日には理解度を測るための試験が待ち構えており、それをどうやり過ごすかで頭を悩ませ、眠れぬ夜を過ごしているというのだ。

本人は気がついているかどうかわからないが、マリオはとにかく見栄っ張りだ。
カタカナがつく職種がカッコ良いという理由だけでIT業界に飛び込み、そして、名刺に印刷される肩書が組織内でのアイデンティティを証明する唯一のものと信じて疑わない。
そんなマリオにとって、先端技術の研修についてゆけず、最終日の試験で散々な成績を残すということは社内での評価を下げるものであり、それが何よりの恐怖であるとともに、自尊心をいたく傷つけられる出来事なのだ。

バカバカしい・・・・・。
カタカナのつく職業ほど世間のイメージと実情の乖離が激しいものはない。
IT業界などその最たるものであると、30年以上の実務経験から身にしみてわかっている。
働き方改革なる美辞麗句のもと、課員の残業時間だけはハッキリと可視化され減らされてはいるが、納期と検収を厳守とする社内ルールと文化は厳然として生きたままだ。
減らされた労働時間の埋め合わせは残業とは無縁の中間管理職をさらに疲弊させ、巧妙に隠蔽されたサービス残業へと転嫁されてゆく。
決して可視化されることのない労働力がなければ成果をあげることなど到底できず、成果をあげることのみが評価査定に加算されるとなれば、おのずとルール違反が状態化されてゆく。

上司にとって評価すべき優れた部下というのは、とりもなおさず、無理ゲーと思われる制約のもとしっかりと成果を咥えて帰って来る犬のことなのである。
社内ルール違反の前科のないものは、捕まるようなシッポを露呈させなかったということだ。

ルールを破れば厳しく罰せられるが、それをしないことには高評価にはつながらない。
開けても開けても不幸しか出てこない、地獄のマトリョーシカに翻弄されているようなものだ。
眼の前の数字にしか興味を示さない上司連中が、一介の課員が参加している集合教育の試験の結果など気にするはずもない。
気にするのは組織に与えられた数字に、部下がどの程度寄与したかどうかだ。

「参加した全員が隅から隅まで100%理解なんてできないし、試験って言ったって最終確認テストみたいなもんだろ?誰がどんな点数とったなんて誰も気にしちゃいないよ」
鼻で笑いながらマリオに伝えるも、なかなか納得できない様子であった。

置かれた場所で咲くことができなかったら、場所を変えたらいい。
いや、咲くことができなくたっていいじゃないか。
そもそも「咲く」とはどういうことなのだろうか?
会社組織内に属しているのなら、やはり上司の期待通りの数字や成果を咥えてくることなのだろう。
そんなものは全員が達成できるものではない。
もしそれが出来たとしたら、組織内でのヒエラルキーなど意味をなさなくなり肩書もいらなくなる。
組織一丸となって!なるスローガンが生まれるのは、いつまで経っても組織が一枚岩になれないからだ。

 

 

納得できないまま講義は日程を終え、試験も無事に終了したと連絡が入った。
電話口のマリオの声は憑き物が落ちたように晴れ晴れとしたもので、前回の電話の時とは全くトーンも声色も違っていた。
 

そんなものである。
喉元を過ぎてしまえば悩みも消える。過ぎた過去は変えられないし、散々だったテストの結果も取り返しはつかない。
それで評価が下がるなら下がってもいいじゃないか。
長い人生で挽回するチャンスはいつでもあるし、無理に成果をだそうとすれば、手っ取り早い不正やズル、ルール違反に簡単に手を染めるようになる。
だが、それがバレて前科者になったら一生組織内で這い上がることはできなくなる。


「ヘタレならヘタレでいいじゃん、俺もそうだし、周りのみんな全員ヘタレだよ」
どんな優れた人間でも、毎回与えられた仕事で存分な成果など出せるわけがない。
ヘタレだっていい。でももう一回頑張ればいいだけのことであり、頑張る気力を自分の中から振り絞るだけなのだ。

 

「また明日から頑張ります!」
元気に返事をしたマリオは、もぅヘタレではなくなっていた。

 




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