2023年1月1日、午前10時30分。
中天にいたるには、まだ少しだけ太陽は東に傾いている。
鋭利な刃物を思わせる冷たい空気はカラカラに乾き、降り注ぐ太陽光線の中にキラキラと無数の埃を舞い踊らせている。
これぞ元旦の朝といわんばかりの快晴と寒風の中、思い切って玄関のドアを開ける。
ダウンジャケットを着込んでいるといえ、室内温度との差に嫌でも身体が勝手に震えだす。
玄関先で聞こえた軽快なエンジン音は、年賀状の配達を告げるものだった。
「なんだよ、コレ・・・・・」
郵便配達員の赤カブの後ろ姿を見送りながら自分宛ての年賀状に目を通した途端、手に取った一枚を見つめ思わずこの言葉が口から吐いて出てしまった。
元日早々、なんだかなぁ~という気分にさせられたのである。
2021年からスタートさせた年賀状の断捨離。
身内と親しい友人にだけ送るようにして、それ以外は貰ったら返すというスタイルに移行して2年が経過した。
自分もそうなのだが、元旦に到着するよう対応しているということは、それだけ相手に対する「思い」の優先順位を高く設定しているに他ならない。
人間関係の濃密さの裏返しとでもいうべきか。
またそういう相手からは、簡単な近況や挨拶でもしっかりと肉筆で書かれてあったりするものなのだ。
だが、1月3日以降に到着した年賀状については、ほとんどの場合がやっつけで対応されたものだ。
シレっとフェードアウトしたかったのに、送られてきちゃったモンだから仕方なく返信しました感がハンパない。
実際自分もそうだから偉そうなことは何もいえない。
そういう相手こそ、形式にこだわらないという相互了解がとれた時点で、ラインのスタンプ一発「あけおめ・ことよろ」でも全然OKなんじゃないかと思ってしまう。
なにより血の通っていない年賀状作成に費やす時間がもったいない。
スマホのボタン操作一発で済むなら、これほどお気楽で金と労力と時間を節約できることはないではないか。
そんな思いもあっての年賀状断捨離であり、毒にも薬にもならないような間柄の人間(特に関連の薄い会社上司や同僚)からの年賀状を、無言のうちに拒否する意思表示でもあったのだ。
手元にある年賀状。
宛先にはしっかりと私の住所と名前が印刷されている。
裏面には干支の兎をあしらったピンクでラブリーなイラストとともに、Happy New Year!の文字が踊っている。
だが、肝心要の差出人の情報は一切印刷されておらず、どこの誰が送ってきたのか皆目見当がつかない。
年賀状をくれるような女性の知人・友人はともにゼロであるから、このピンクでラブリーなウサちゃんイラストをチョイスしたのは加齢臭を撒き散らすアラフィフのオッサン以外にありえない。
なおかつ、この年賀状には消印がない。
年末における郵便局の業務簡素化のため、12月15日~12月28日の期間に投函された年賀状には消印が押されないのだ。
これはとりもなおさず、のっぺらぼうと同じこの年賀状が、しっかりと元旦に私のもとに到着するように準備されたものであるということなのだ。
先出の例であれば、この差出人と私との間柄はそこそこ濃密なものであると推察できる。
断捨離という無言の拒否行動をものともせず送ってくるということは、つまりはそういうことなのだ。
だからなおさら気持ちが悪い。
一体お前は誰なのだと、小一時間ほど問い詰めたい。
やっつけ仕事で送ってきたのだとしても、せめて差出人くらいはわかるようにしておくべきである。
この状態では確認のしようもないし、返信したくとも送り先がわからない。
日本語で書かれた年賀状一枚だが、そのやりとりはまさにノンバーバル・コミニュケーションではないか。
1月11日を迎えた現在でも、未だ送り主はわからない。
2023年一発目に投げ込まれた謎は、正解がわからぬまま2023年を終えそうである。