三つ子の魂百まで。
最も多感なティーンエイジという時代に色濃く、かつ強烈に心に刻まれた思い出は、その後の人生観や心情、果ては生き方にまで強い影響を及ぼしてしまう。
例えばそれが幼い恋愛であったり、バイクや車などを乗り回す行為であったり、映画や小説であったり、演劇や絵画や書のような有形・無形の文化的なものであったとしてもだ。
とにかく、未成熟な心の琴線に触れたものがその後の人生に大きな影響を及ぼすのはいうまでもない。
接近遭遇した時代の潮流ももちろん無視はできない。
今や女性アイドルのコンサートや握手会などは、その吐息や飛び散る汗に手が届かんばかりに間合いを詰められるような時代になった。かつて自分が高校生だった頃、彼女の姿を見るのはTVの画面越しが当たり前であった。もしくは、決して安くはないS席ステージ最前列のプラチナ・コンサートチケット獲得という幸運をもってしても、遥か遠く数メートル先の眼前を行ったり来たりする距離感であったのだ。
「会いに行けるアイドル」などというコンセプトなど、その存在自体が許される訳などない時代であり、絶対的不可侵な物理的距離が厳然と存在していたのである。
そんな環境下においても、気も狂わんばかりに自らの推しを愛し、惜しげもない金糸で艶やかに名前の刺繍された特攻服に身を包み、青春の1ページを無駄に、そして無為に過ごした友人たちが身近にはゴロゴロといた。
80年代はアイドル黄金時代と呼ばれ、令和現代でも時折TVで特集番組が放映されるくらいである。
推しを見つけた友人たちは、あらん限りの私財と情熱と労力を注ぎ込み、喉も千切れんばかりにステージ上の彼女に向かって咆哮していたものだった。
あの当時の懐かし映像を見て目を細めている貴兄は相当数いるはずである。
アイドルに夢中になる友人たちを後目に、自分はハードロック・ヘビーメタルに夢中だった。
地元TV局がキー局に先駆け、洋楽プロモビデオを延々と流すMTVの放送を開始したのもこの頃だった。
ビデオジョッキーなるナレーション担当女性が番組冒頭とエンディングに声だけ出演し、やたらと発音の良い英語で番組名とスポンサー名を紹介するや、あとは時間いっぱいまでプロモビデオを流すだけである。
ビデオ放映権の購入でそれなりに制作費はかかったであろうが、それ以外ほとんど手間暇のかからない同番組は、タイトルも内容もそのまままに、今も放送を続けているご長寿人気コンテンツだ。
1981年、女性ロックンローラーとしてI love Rock’n Rollという楽曲を全米チャート№1に叩き込んだジョーン・ジェット。彼女のバンドのプロモビデオは全編モノクロであり、雑然としたストリートのロックカフェを舞台にエネルギッシュにただ演奏するだけというシンプル極まりないものであった。
だが、そのシンプルさと粗っぽさが逆にクールで強烈にカッコよく、脳髄がしびれるほどの衝撃を受けた。
フォークソングやアイドル歌手しか知らなかった高校生の自分は、彼女が掻き鳴らしたギターリフの歪んだサウンドに一発で叩きのめされてしまったのだ。
そこから先は芋づる式にロックを貪るようになり、求めるサウンドもよりハードで攻撃的なものになっていった結果、最終的に行き着く先がハードロック・ヘビーメタルというジャンルというのも当然のなりゆきだった。
神奈川テレビのこの番組との出会いがなければ、洋楽ロックと出会うことはなかったのである。
もしもあのまま大人になっていたとしたら、果たして自分の人生観はどのように変化していただろうかと考える。
とはいえMTVは放送前から話題になっており、学校が終わると一目散に帰宅していたのは「洋楽好きの一派」と「夕焼けニャンニャン一派」の二手に完全に分離されていた。
どちらも帰宅後の学生をメインターゲットに絞った番組編成であったのだ。
多様性が叫ばれる現代では考えられないほどステレオタイプ的であり、趣味趣向もメディアに操作されていた感が否めない。
自分はもちろん自他ともに認めるMTV派だったのだが、興味のない楽曲のプロモビデオが流れるとすかさず夕焼けニャンニャンにチャンネルをザッピングする、意志薄弱のなんちゃって洋楽ファンであったのは言うまでもない。
思春期真っ只中において、女性アイドルには他の誰よりも興味はあった。嘘ではない。
だが、他の誰よりも興味がなさそうにクラスでは振る舞っていた。
ハードロック好きな自分が格好良いと信じて疑っていなかったのである。
街の小さなレコード店で松田聖子の「青い珊瑚礁」のドーナツ盤を片手に、小一時間も購入をためらい懊悩していた自分が情けない。
ドーナツ盤のジャケットをひと目見た途端、もぅどうしようもなく身体が動かなくなってしまったのだ。左右両側に緩くウェーブの掛かった髪型と、何かを訴えかけるようなつぶらな一重まぶたの松田聖子のジャケット写真に一目惚れしてしまっていた。
清水の舞台から飛び降りる決死の覚悟で500円札を握りしめ、青い珊瑚礁を我が家にお迎えしたのはご想像のとおりである。
「自分は他人とは違う何かを持っている」、「自分は他人とは違う」という、半ば願望めいた遠慮会釈なしの大勘違いな謎の妄想を胸に抱いて高校生活を送っていた。
その薄氷のような唯一のアイデンティティを心の拠り所として、日々見えないものに尾崎豊していたのだから始末に悪い。まさに黒歴史の闇を無灯火で暴走している人畜無害なアナーキストであったのだ。
今で言うところの「中二病」の祖たるような自分が、その他大勢が血道を上げている女性アイドルに興味津々でいるなど、他の誰でもなく自分自身がそれを許せなかった。
唯一無二であるはずの自分を虜にした音楽が、その当時大流行していたハードロック・ヘビーメタルだったというのは、結局、大衆が好む音楽を大衆と同じように好んでいたことの証左に他ならないのに。
ハードロック・ヘビーメタルは当時の音楽シーンにおいて少々異端ではあったかもしれないが、その中でも一定数以上のファンは獲得しており、紛れもなく流行っていた音楽ジャンルの一つであったのだ。
甘ったるいだけのAOR(Adult Oriented Rock)や時代遅れのパンクやニューウェイブなんてものは聞く価値がなく、ビルボードトップ40のベスト10に入るような音楽は大衆に迎合しているだけのくだらないものと決めつけていた。
ハードロック・ヘビーメタルとて例外はなく、しっかりとビルボードのヒットランキングにチャート・インしていたにもかかわらず、その事実には一切触れようとはしなかった身勝手ぶりに今更ながら目頭が熱くなる。
冷静に考えなくとも、自分の考えが矮小で狭小でコウメ太夫ばりにチッキショーだったのである。
アラフィフをとうに過ぎた現在でも、「流行にのる」という言葉に少々敏感に反応してしまう時があるのも、こんな偏った考え方で思春期を過ごした名残であると感じている。
あれだけ頑なに拒否していた当時の流行歌の数々は、今聞くとたまらなく切なくて、素晴らしい曲ばかりだったことに気付かされる。
皆と同じであることが恥ずかしいと思っていた自分が恥ずかしい。
全くもって中二病には特効薬がなく、時間の経過だけがその症状を緩和してくれる。
少しずつ、世間との折り合いの付け方を知ることを「成長」と呼ぶ。
未成熟で無垢な心を持っていた時期が長ければ長いほど、少しも成長せず年齢だけを重ねることになる。
自分は唯一だけど特別じゃない。
こんな当たり前のことに気づくのに何年かかったことか・・・・・。
少し前まで歯牙にもかけなかったレディー・ガガの曲が底冷えのする冬空に滲みる。
I will always remember us this way.
(こんなふうに私達のことを思い出すのよね。)
別れを予感させる切ないラブソングのはずなのに、どうしてか過去の頑なだった自分を思い出して仕方ない。
レディー・ガガ。最高じゃないか。