黄昏のスキャット

スキャット

スキャット。

己の声を楽器に見立て、即興的に、その声を伴奏のメロディーに乗せてゆく。
有名どころといえば、ザ・ビーナッツ「恋のフーガ」、サントリーオールドTVCM「夜が来る」、「徹子の部屋オープニングテーマ」、由紀さおり「夜明けのスキャット」、スキャットマン・ジョン「スキャットマン」あたりが有名で、読者の方も何人かは聞いたことがあるだろう。
(昭和世代限定ってことで)

数ある名曲の中、我が人生におけるスキャットの名曲、孤高のナンバーワンソングといえば、さだまさし「北の国から」のテーマをおいて他に考えられない。

どこまでも続く、澄み切った青い空を思わせるアコースティックギターのアルペジオから始まり、その弦がはじき出す音色に乗るスキャットは、フワっと優しく浮かぶ白い雲のようだ。
ささくれ立って荒んだ心に干天の慈雨が染み渡り浄化していくような、慈愛に満ちたスケールの大きい名曲だ。
歌詞が全くない分、そこに自分の好きなように心模様を描くことができるのが最大の魅力なのかもしれない。

大多数の方がこのテーマを聞けば、ドラマのもう一つの主役とも言える、雄大なる北の大自然を思い浮かべるに違いない。
黒崎五郎、蛍、純による心温まる家族の姿に涙した人も多いだろう。
32巻というボリュームで、全話収録したDVDマガジンが創刊されたのも記憶に新しい。
倉本聰が紡ぎ出す、足掛け11年にも及ぶ一つの家族の成長物語は、今も色褪せることがない。

周回する後悔

猛り狂った日差しが徐々にその勢いに陰りをみせ、吹き渡る風が涼しさを孕み始めると、季節はゆっくりと秋へと急いでいく。
入道雲が消えた空は薄青色に抜け、夏のそれより随分と高くなった。
残暑は相変わらず厳しいものだったが、日課であるウォーキングは今日も欠かさない。
雨により諦めざるを得なかった日もあったが、今日の降水確率は0%。
雨雲レーダーを見るまでもなく、真夏の残り香のする秋空の下を玄関から勢いよく歩きだす。

住宅街の細い路地をしばらく真っ直ぐに歩き、大きめの幹線道路にぶつかる交差点を左に折れる。
右手にはコンビニエンスストア、左手にはチェーン展開している地名を冠した定食屋が軒を連ねる。
さらに道なりに歩を進めると、目の前に一級河川である「酒匂川」にかかる大きな橋を渡ることになる。

その橋をゆくと、左手には富士山、右手には川の流れが行き着く相模湾が見える。
川の流れに沿うように河川敷のグラウンドが整備され、そこから視線を上げていくと、JR東海道線の橋りょうの遥か上に富士の山頂が見える。
栃木県から来た友人は、眼前の富士山を見ただけでテンションが爆上がりしていた。
日常に溶け込んでいる風景は、そこに住んでいる者にその価値を再認識させることが難しい。
しかし、それが非日常である他県の人間からすると、富士山が見えるというだけで霊験あらかたな土地に早変わりする。
普段は気にもとめていなかったが、これだけのロケーションに恵まれたウォーキングコースも、そうはお目にかかれないだろうと思う。

橋を渡りきり川沿いの道を歩きながら、酒匂川への土手を降りていく。
その先の河川敷には、グラウンドの他、アスファルト敷きのサイクリングコースが併設されている。
オーバルの形をしたコースに沿って、ランニングやウォーキングに汗を流す人の中へ交じるように入っていく。
顔を上げると、薄青色から青、群青、白、オレンジのグラデーションがかった空の色に、富士山のシルエットを黒く切り抜いたような夕刻の風景が広がっている。
相模湾に向かう東の方向に、自分の歩く姿が細長い影となって伸びていく。
ウォーキングのお供に連れているiPhoneからは「北の国から」が流れ、トランペットの調べが黄昏の空に溶けていくところだった。

青々とした背の高い雑草に囲まれたサイクリングコースをひたすらに歩く。

本当なら北の大地に心はテレポートしてるはずなのだが、今日はなぜか母の顔ばかり思い出してしまう。
この世に生を受けて半世紀以上、親の期待には全く応えられないボンクラ人生だった。
親として一番最初に願う、「とにかく五体満足に生まれて欲しい」という願いだけは叶えることができたが、それ以外についてはことごとく裏切る結果しか残せていない。
与えてもらう愛情は人並み以上だったのに、孝行として返せたものはほとんどなかったと言っていい。
高いお金を出して教育してくれたのに、卒業証書をもらった学校の知名度は著しく低かった。
子供の学歴を声高に主張して悦に入るという高尚な趣味を持っていなかった母親は、特段、私の学歴に対して何もいうことはなかった。
コストパフォーマンスが最低の部類に入る息子のオツムの具合に対し、期待から諦め、達観に至るまでにそう時間はかからなかったからだ。

「そういえば、純も蛍もかなり困った人生送ってたよなぁ」。
北の国からの主人公、純と蛍の人生もそれなりにハードモードで描かれていたのを思い出す。
実社会で迷走を極める二人の人生は、そのまま自分のロクでもない人生と被る部分が多々あった。
母親として、私の生き方に一家言あったことは想像に難くない。
阿藤快のごとく「なんだかなぁ~」と、ため息交じりの子育ての日々であったと思う。

私には子供がいない。
だから、母親がしてきた苦労、感じていた期待、憤り、諦め、喜びなどを追体験するチャンスはもう一生巡ってこない。
それもこれも自分の人生なのだから仕方ない。人生の岐路に立たされ、選択してきたものの積み重ねが今の自分だ。

子供がいたら?
たらればの想像の世界に一瞬身をおいてみても、宝くじが当たったらどうする?的な虚しさしか広がらない。
軌道修正するチャンスはいくらでも人生に転がっていたのに、その穂先を掴まず、ただ流されるままに生きてきた。

今度生まれ変わったら、もう少しマシな人生を歩んでみたいと思いつつ、やっぱり大金持ちのボンボンに生まれ変わりてぇなぁ~と、これまたロクデナシの考えが頭をよぎったりする。
グルグルグルグル、一周1.6キロのコースを三周するころにはマジックアワーもすっかり終わり、夜の帳が下り始めてきていた。

黄昏のスキャットに後ろ髪を引かれながら、私はようやくサイクリングコースを後にした。
「まぁ、こういう生き方だったからしょうがないよね」。
自分自身を言いくるめるようにつぶやくと、東の空の一番星がクスっと笑ったようだった。

 





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