一ヶ月一万円生活

歴代の尊敬する人物

「はい、これ今月分ね」。

妻から手渡された紙幣には、福沢諭吉の肖像画が神々しく印刷されている。
いつ見ても、財布の中に福沢諭吉が鎮座ましましている姿に笑みがこぼれてしまう。今現在、彼以外に財布の中に居てほしい人物といえば、樋口一葉と野口英世の二人だけだ。それ以外の人物などありえない。
源氏物語絵巻の紙幣については触れない。自販機で使えないし、今ではほとんど流通していないからだ。

歴史上の人物で一番尊敬するのは誰かと聞かれたら、高校生までは「聖徳太子」と答えていたが、そこから現在に至るまでは「福沢諭吉」と答えている。近々「渋沢栄一」に変わることになるだろう。
日本銀行が発行する最高額紙幣に肖像画が印刷された人物、その人こそが最も尊敬に値し、敬愛する人物として今まで生きてきたのだ。

妻から手渡された福沢諭吉は、たった一人だった。
紙幣同士がぴったりと重なり合ってはいないだろうかと、それこそ破れてしまうかと思われるほど、何度となく指でこすって確認するも、やはり福沢諭吉は一人であった。

妻曰く、「リモートワークでずっと家にいるんだし、外出自粛で毎日のウォーキングと、週に一回の買い物くらいしか外に出ない、したがってお金を使うことはないでしょう。だから、今月からお小遣いは一万円です」とのことだった。

このコロナショックのご時世、日本を始めとする世界の経済が未曾有の大不況に直面しており、休廃業・解散する企業が次々と現れている。失業者の数も日に日にその数を増やしている。日常生活に目を向ければ、通常時は1,000円もしなかった50枚入りのマスクが、人の足元を見やがって3,500円もする始末だ。(今はすっかり値段が大暴落しており、さんざ荒稼ぎした転売ヤーざまぁみろ!とニヤニヤしている)

我が家の経済状況もご多分に漏れず、「緊縮財政」と「忍」を強いられているのは重々承知しているが、それにしたって一万円ってどうなの?と思ってしまう。
タバコは10年以上前に止めてしまったので今さら吸いたいとは思わないが、爽やかな春の夕暮れ、夕食時、風呂上がりなど、カラッカラに乾いた喉を潤すアルコールが欲しくなるではないか。
リモートワーク中、15時になれば小腹を満たすため、ちょっとしたスナック菓子だって欲しくなるではないか。
図書館が休館しているため、どうしたってAmazonで欲しい本をポチってしまいたくなるではないか。
コロナショックが落ち着いたら、仲間たちと一緒に串カツ田中で豪遊する計画はどうすんの?
その他諸々の我が物欲を満たすためには、妻から受け取った福沢諭吉ひとりでは到底足りないのだ。せめてもう2枚は欲しいところなのだ。

「異論、反論、お小遣い値上げの要求には一切応じません。どうしてもというなら、こちらは食事の調理を今後一切放棄する実力行使に出ます!」、ピシャリと妻は言い放った。
口元は笑っていたが目は笑っていない。ヤツは本気だ、間違いない。
これ以上、小遣い値上げの孤独なシュプレヒコールを上げ続けようものなら、私は明日からカップ麺かコンビニ弁当しか口にできなくなるだろう。
いやいや、レトルトカレーがあるかもしれない。
しかし、これでは小遣いの額が増えても食費で散財してしまうのは明らかで、少しも物欲を満たすことは敵わないだろう。

あぁ無情。我は令和日本に生まれしジャン・バルジャン。

こうして一ヶ月一万円生活という、どこかで見たようなバラエティー番組さながらの生活を余儀なくされたのだ。

一体何に散財していたのか?

一万円をいかに有効に使うか?
手にした瞬間から、その命題について思案することに時間のほとんどを費やしたトイレの中。まずは、今まで何に小遣いを使っていたかを考察してみた。

・・・・・。
コロナショック以降、外出するのはもっぱら日課のウォーキングである。
ウォーキングでお金を使う場面などほとんどなく、もし使うのであれば、それはもはやウォーキングなどではなく、ただのお買い物だ。
お買い物といっても、そもそもそんなに急を要するほど必要なものがない。欲しい物もない。
思い出してみても、水分補給のためにコンビニで購入するペットボトル飲料くらいのものだった。たまに小腹が空いたときはプロテインバーを買ったりもしたが、飲料と合わせても500円あれば充分に足りる。

週に一度の買い物にしてみても、私はただの運転手である。近所の大型スーパーの駐車場まで妻と母を連れていき、二人が買い物をしている間は車内でシートを倒して文庫本を読んで待っているだけなのだ。
スーパーの中をショッピングカートを押しながら、妻の後を金魚のフンみたいにくっ付いて歩いたためしがない。ショッピングカートは女性向けに設計されているので、男性の歩幅と全く合わず、歩きにくくて仕方ないからだ。

それだけだ。
コロナショックでの私の生活と言えば、自宅でリモートワーク、ウォーキング、週に一度の運転手くらいのものだったのだ。
読みかけの本が机に溜まっており、最近はAmazonでポチることも少なくなっている。
新刊を買う前に、読みかけの本をしっかり読了するほうが先だ。

妻は正しかった。
妻の言うとおり、私の日々の暮らしの中で、お金を使う行為が極端に少なくなっていたことに気づかなかったのだ。ウォーキング途中の水分補給だって我慢しようと思えばできるはずだ。確か、いつも立ち寄るスーパーには無料のウォーターサーバーだってあったはずだ。そこで水分補給すれば、そもそも小銭入れを持ち歩く必要もないのだ。

令和日本に生まれたジャン・バルジャンと、我が身に与えられた小遣いの額を悲観していたが、日々、家計のやりくりをそつなくこなく妻には全てお見通しだったらしい。

しかし、リモートワーク以外の私の日常って・・・・・。
もうすっかり隠居したおじいちゃんみたいではなかろうか?
奇しくも、コロナショックが定年後の生活を疑似体験させてくれるものになろうとは思わなかった。

こうして私は年をとっていくのであろう。


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