悪口の思い出は懐かしく、そして鋭く痛む
随分時間が経過してしまったが、前回の続きである。
許していただきたい。
アラフィフおやじの小さくフラジャイルなメンタルを、ちぎり豆腐のように握りつぶし粉砕したのは、ズバリ、「悪意に満ちた悪口の流布」であった。
握りしめた拳の中、我が豆腐メンタルがグチャリと音を立て、指の間から勢いよくはみ出してしまったのだ。
もう元に戻すことはおろか、別の料理に転用することもままならない。
そもそも、もうそんなモノは口にしたくない。
私が小学生の頃(モロ昭和の時代)、クラスメイトの身体的な特徴、家庭環境や貧富の差を揶揄する、かなりエゲつない悪口は当たり前のように日常会話の中に溢れていた。今では考えられないほど、ストロングなコミニュケーション・プロトコルを常用していた時代であった。
無邪気な悪口は、広い教室の隅に溜まる綿ゴミのように、いつでもどこでも転がっていたのである。
ボキャブラリー貧困な子供ゆえ、視覚的に目立つ特徴(太っている、痩せ過ぎている、貧乏くさい、洋服が薄汚れている等)を囃し立て大騒ぎする。ストレートに相手が気にしているであろう、負い目や引け目を口汚く中傷するのであるから、たとえ、その表現がいかに稚拙を極めるような下らないものであっても、言われればかなりのダメージを負うことになる。
クラスメイトに机の周りを囲まれ、知性の欠片もない、あらん限りの恥辱の言葉をリフレインで浴びせかけられたのだ。それでも何とか我慢し、耐えることができたのは、こちらも負けじと相手にやり返していたからに他ならない。
授業の合間の短い休憩時間や昼休み。クラスの隅でケンカをしながら悪口を言い合うグループが居た光景(自分も含め)は、今でも懐かしさとともに、遠い鋭い痛みを胸の中に残している。
子供とはやはり残酷な生き物なのだ。
子供は残酷、大人は狡猾
子供の頃の悪口は純粋に残酷なものであったりするが、大人になってからのそれは、残酷さと狡猾さを併せ持ち、更にそれを極めるようになってくる。
成長に伴い知恵がついてくれば、その口から発せられる悪口にも言霊が宿るようになるのだ。
しかしながら、友人関係の中で交わされる悪口には、その根底に友情で裏打ちされた「信頼」が存在し、内容的にはシャレにならないキツいものであったとしても、ガハハハ!と笑い飛ばせ、遺恨に残るようなものにはなり得ない。
どの程度までの言葉が相手を傷つけてしまうのか、触れてはならない琴線ワードが何であるのかを、お互い十分に熟知しているからである。
だが、それが会社組織の中となると、話は全く別物になってくる。
上司と部下、同僚、関係会社の人間など、立体的に織りなされる複雑な人間関係の中、そこから発生する「批判」という名の悪口には、純粋に悪意や八つ当たりに満ちたものしか出てこないのが普通である。
相手のことを思いやることなど全くなく、遠慮会釈なしに「有る事無い事」を言われるのだ。
同じ大人が発する悪口なのに、その身を置いている環境や関係性が異なるだけで、どうしてこうも異質なものに変態してしまうのだろうか?
会社組織内で交わされる悪口は、一旦外部に漏れようものなら、パワハラだのモラハラだのとコンプライアンス違反に抵触しかねない案件に変貌してしまう。
それであるがゆえ、完全にクローズされた状態の中で成立させることを絶対条件とするものなのだが、今回私が経験した出来事は全く違っていたのである。
会議中という完全フルオープンな状況で、私の同僚を含め、私と余り接点のない他グループのメンバーや協力会社の人間も同席している席上で、これでもか!と言わんばかりの罵詈雑言を、当事者不在の中、会議参加者全員に浴びせかけていたという事実であった。(私はその会議に参加しておらず、その会議の存在自体知らなかった)
しかも、その発言者張本人が私の直属の上長であったという事実に驚愕した。まさに、鈍器で頭をしたたかに殴られたような衝撃とはこのことをいうのだろう。
今回の件が発覚し、私の耳に入るようになったのは、前回も書いた通り、とある友人からの一通のラインメッセージからだった。
彼曰く、彼が参画しているプロジェクトの会議の席上、同じく参加していた私の上司が、「あんた、自分の部下のことをソコまで言う?いくらなんでも言いすぎでしょ?」と、他社の人間が眉をひそめるほどに、口汚く、事実確認してもいない就業態度、仕事の能力、モチベーション、人格にいたるまで、まぁ、ありとあらゆる面で呪いにも似た悪口をその場で高らかに演説していたと言うのだ。
私のことを全く知らないメンバーはたまったものではないだろう。
自分の知らない人間の悪口を延々と聞かされるのだ。
まさに、無理やり公開処刑の場に参加させられたオーディエンスと同じではないか。
私を知らない人間は、一体私をどんな人間だと思いながら会議の時間を過ごしたのだろうか?
風評被害も甚だしい。
今後の仕事、構築すべき人間関係にも多大なる影響が出ること必至である。
こんな冗談のような、当事者不在の公開処刑に参加させられたとあっては、さすがに我が豆腐メンタルも粉々に粉砕してしまっても仕方ないかと思う。
第三者からすれば、なんだそんなこと、生きてればいくらでもあるじゃないか!と言われそうだが、今回はちょっと心が折れてしまったのである。ポキっと枯れ枝を折るような音とともに。
ダメ人間のレッテルを貼られてしまったような気になるのも、これはまた仕方のないことではないだろうか?
だいぶ復活してきたのだが、まだまだクヨクヨしている情けないアラフィフおやじがここにいる。
完全復活するには、もう少しの時間と入眠剤が必要だ。
今回得た教訓は、「悪口は影で言われていると思ったら大間違い。自分の居ないところで会議の議題にかけっれている可能性が大いにあることを忘れてはいけない」という、なんとも心がザワつく気づきにも似たものであった。
あ~辞めれるものなら辞めてしまいたい。