「気にしなくて良いから」という言葉が徐々に社員を追い詰める

Dreaming

時に、励ましや慰めの言葉は、かけられた人間を徐々に追い詰めてしまう場合がある。
たとえ言葉を発した本人と、その言葉に、少しの悪意や他意がなかったとしてもである。

日々の仕事をこなすうち、過度のプレッシャーやストレスにさらされ、メンタルを病んでしまう人は少なくない。
「メンタルヘルス」や「鬱」、「働き方改革」などの従業員ファーストな単語が、まだこの世に発明されることのなかった昭和の時代、精神への負の圧力に抗う術は「忍」の一字で耐え忍ぶしかなかったのだ。

今から考えると、昭和の働き方はバブルの世相を伴い、とにかく企業の都合よく働き続けること、残業をすること、与えられた仕事に疑問を持つことなく、ひたすらロボットの様な人間であることを強いられた。
また、そうであった人間が評価対象として組織に認知されていた恐ろしい時代だったのである。

地元のソフトウェア開発会社に就職が決まり、入社式を待つばかりとなった平成元年3月下旬のある日、車の免許を取得したばかりだったと言うこともあり、私は夜な夜な仲間たちとドライブに興じ、最後のモラトリアム生活をイヤと言うほど満喫していた。
今から考えると、夜の夜中に仲間と車に乗り、ただただ馬鹿騒ぎしていただけだったのに、何故あんなにもテンションが上がり、心からの自由を感じることができたのだろう?不思議で仕方がない。
今となっては車の運転など、渋滞はするわ疲れるわで、その行為自体に苦痛を伴う場合の方が断然多いのである。
あの頃のような、ステアリングを握り、アクセルを踏むだけで得られた多幸感を取り戻すことはもう出来ないであろう。

カーステに吸い込まれたカセットテープからは、解散して間もないBOOWYのDreamingがヘビロテで流れていた。

右へ倣えで落ち着き、一日を選べない。
人形とも違わない、Oh no!
そんな奴らは好きじゃない、俺はそんなにバカじゃない。
ハートは今ここにある、Oh no!

BOOWY Dreamingより

氷室京介がシャウトする歌詞に果てしないシンパシーを感じ、彼らのサウンドと一体化することにより、自分たちが虚ろな自由を手に入れていたと感じていたあの頃。
その頃の私は、時間を持て余し、貧乏であり、恋愛に関してはひたすら孤独であり、ただただ親のスネをかじって生きるパラサイトなものだった。
それを「自由」と勘違いしていた、とんでもない馬鹿太者だったのである。

永遠に続くと信じて疑うことのなかった「自由」は、翌月から社会と仕事に略奪されることなど考えもしなかった。

運転に疲れ休憩を入れようと、少しぬるくなった缶コーヒーのプルタブを引き上げた時、ふと見上げた窓から煌々と明かりが漏れるのが見て取れた。
時計の針がテッペンを少しすぎた深夜0時15分。
動く人影を確認できたのは、間違いなく来月から自分が入社する事になっている会社である事に気付いた時、社会人になる不安がムクムクと大きくなった感覚は今でも忘れられない。
人形とも違わぬように働かされる不安が、氷室京介の歌声とシンクロした一瞬であった。

それが現実のものとなるのは、入社して初めての夏を迎える頃だったのである。

だんだんと暗くなる顔色と雰囲気

OJT(On the Job Training)。
実際の業務をこなしがら、その内容をトレーニング形式で習得していく手法であり、新入社員は誰一人の例外もなく、このOJTを経験してから配属が決まる仕組みとなっていた。
(令和の現代、この手法を用いて新人教育をしている企業がどれだけ残っているだろうか?)

ソストウェア開発会社であったため、まずは基本的なプログラミングについての知識習得で2週間が過ぎた。
・ハードウェアとソフトウェアの違いとはなんぞや?
・コンピュータで扱う情報の最小単位とはなんぞや?
・ソフトウェア内部で処理する手続きを、効率よく、間違いなく記述するためにロジックはいかにして考えるべきか?

パソコンやインターネットなど存在していなかった時代の話である、何もかも初めて見聞する事柄であり、講師の話を完全に理解するに至っている新人などは、情報処理系の学校を卒業した数人の同期しか存在しなかった。

だんだんと同期入社メンバーの顔色が暗くなっていったのは、この頃を少し過ぎたあたりだった。
付いていける人間と落ちこぼれる人間との明暗が、はっきりとその表情からも出てくるようになっていったのである。

そして浴びせかけられる「気にしなくていいから」

OJTもなんとか無事に終了し、そろそろ新入社員の配属先が決まろうかという時期、それは起こった。
同期入社の一人が退職を願い出たのだ。

その理由など今となってはすっかり忘れてしまったが、一番の理由は残業の多さだったとしか考えられない。
深夜0時を過ぎても誰かが残業していたくらいである。
出来の悪い新入社員がOJTの内容を理解するまで、しっかりとプログラムの内部ロジックが書けるようになるまで、先輩ヘの質疑応答と復習と称した残業を課せられていたのは言うまでもない。
この頃はバブルである、残業代など天井知らずで支給されており、何より残業することで努力している姿勢をアピールする事が美徳とされていた旧石器時代である。
指導していた先輩や上層部は、ネアンデルタール人以下の知能を有していたとしか言いようがない。

その同期社員は常に先輩に柔らかい叱責を頂戴していた。
「今は理解できなくても大丈夫、気にしなくていいから」。
「プログラム・ロジックはもっと上手く書けるようになるから、今は気にしなくていいから」。
「そんな事もまだ理解できてないのか・・・・・・でも、気にしなくていいから」。
「何回同じ事言ったら分かるんだよ、ったく・・・・・まぁ、気にしなくていいから」。
「いい加減、俺の手ぇ煩わせないでくれよ、マジで・・・・・気にしなくていいから」。
「お前、この仕事向いてないのかも知れないな・・・・・ま、気にしなくていいから」。

言葉の最後に「気にしなくてもいいから」が添えられているが、先輩から彼への言葉は段々とキツく、遠慮会釈がなくなっていったのだ。
あからさまな新入社員への恫喝とも取れる言動は、さすがに昭和時代でも多少警戒はされていたようだが、今ほど神経質に考慮されているものでは全く無かった。
彼のできの悪さは、次第に先輩社員の怒りを買い、段々とパワハラめいた言動へとシフトさせていったのである。

彼は耐えられなかったのだ。
いくら「気にしなくていいから」と、明るくにこやかに言われたとしても、毎日矢のように飛んでくる柔らかい恫喝にメンタルをヤラれてしまったのだ。

彼の最終出社日、社内の人間一人一人に挨拶をして回っていたのだが、憑き物の落ちた、実に晴れ晴れとした素晴らしい笑顔を見せていたのを今でもハッキリ覚えている。
あんな嬉しそうな、弾ける笑顔を見せられる人間だったのかと驚いてしまったのだ。

彼と別れてから既に30年近くが経過してしまったが、現在、彼がどこで何をしているのか、全く情報は知り得ていない。
せめて「気にしなくていい」職場に再就職をして、元気に家庭を作り、そろそろ定年退職へのカウントダウンを始めていてくれたら幸いだ。
私はたまたま運がよく、転職をしたけれども何とかここまでやってこれたのだ。

令和の世になっても、未だに「気にしなくていいから」はまかり通っていると思う。
時代の流れと共に、先輩社員や上司からかけられる言葉も、コンプライアンス遵守の大号令により表現上の変化はしているだろうが、本質的な部分では変わっていないと思うのだ。

「気にしなくていい」という謎のプレッシャーで、社員はどんどん追い詰められていく。
「パワハラ」に対して異常にナーバスになっている現代社会だが、いくら時代は変わっても、人が人を追い詰めるという行為は普遍的なものではないだろうか?
そうでなければ、パワハラによる退職者など出現しないと思うからだ。

もちろん、私は上司から「気にしなくていい」と、心優しい助言を毎日いただいている。
何となく寝付きの悪い毎日はそのせいだと思いたくない。
思ったら最後、もっと眠れなくなってしまうからだ。

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