お礼参りに安井金比羅宮を参拝
この3連休を利用して「安井金比羅宮」にお礼参りに出かけてきた。
今回の旅行、無事に「縁切り」のご利益をいただけたことへのお礼参りだったのだ。
どのようなご利益がいただけたかは後ほどご紹介するとして、まず、この神社がどのような理由で「縁切神社」として有名なのか、少しまとめてみた。
安井金比羅宮の主祭神は「崇徳天皇」である。
叔父子と呼ばれた崇徳天皇
崇徳天皇は生まれから悲しい運命を背負っていた。
父である鳥羽帝とは実の親子関係ではなく、曾祖父にあたる白河法皇と、母である中宮・藤原璋子との密通の結果生まれた子であったのだ。
このため、鳥羽帝からは「叔父子」と呼ばれ、避けられ疎まれてしまう。
「叔父子」。
本当は叔父さんにあたる人物であるという意味で、父からそう呼ばれるのである。
これはかなり厳しい・・・・・。
そこから、弟である後白河帝との長く苦しい確執と争いが幕を開ける。
これがただの兄弟喧嘩で済まない様相を呈するのは、ひとえに、藤原氏同士の争い、源平の争いとも複雑に絡んだからである。
それぞれの思惑が絡み合いカオスとなって、次第に「保元の乱」となり、朝廷全体を巻き込む大きな内乱へと進んでいくのである。
怨霊への道
「保元の乱」で崇徳天皇側は大敗を喫し、香川県の讃岐へ流される。
崇徳天皇はここで京への帰還を希望すると共に、亡き父である鳥羽帝への惜別の思いを込めて五部大乗経を写経する。
しかし、これを京の寺に奉納してもらうため後白河帝に送るも、呪詛の念が込められていると恐れられ突き返されてしまうのだ。
(諸説あるが、崇徳天皇の血で写経されたといわれている。呪詛が込められていると思われても無理はない)
写経を送り返されたことに激高した崇徳天皇は舌をかみ切り、
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」
「この経を魔道に回向す」と、自らの血でその写本に記したといわれている。
それ以降、髪も爪も切らず天狗のような姿に変わり果て、最後は讃岐の地で荼毘に付されるのである。
没後、後白河帝や近親者が相次いで亡くなったり、延暦寺の僧兵による強訴が起こったり、安元の大火で平安京の三分の一消失するなどの事件が相次いで起こる。
次第に崇徳天皇の怨霊の仕業ではないか?と、恐れられるようになるのだ。
縁切りの由来
このように、数奇で悲しい運命に巻き込まれた崇徳天皇。
崇徳天皇が一切の欲を断ち切り参龍されたことから、崇徳天皇を主祭神として祀っている安井金比羅宮が「縁切り」、「断ち物」の祈願所として知られるようになるのである。