考えたら、仕事なんてどうでもいいんだ

雨の日の出張

名古屋の出張が終わった・・・・・。
11月も始まろうかという10月最終週の火曜日。
目に見えない細い銀の糸のように、冷たい雨が音も立てず路面を濡らしている朝だった。

始発の新幹線に乗らないと顧客先への訪問時間に間に合わないのだが、こういう、どうしても時間をずらすことが出来ない出張の日に限って天気が悪い。
目覚めの良い爽やかな朝でなくても良い、せめて雨だけは降らないでくれ!と願って床についたのだが、その願いはアッサリと裏切られた。

最悪の目覚めだ。

心のなかでウンザリしながら軽く舌打ちをする。
悪態でもつかない限り、この最悪な朝の気分を到底受け入れることができそうもなかったのだ。

遠隔地に本社がある顧客のプロジェクトに参画すると、どうしても現地まで行かなくてはならない時がある。
TV会議システムも使うのだが、Face to Faceでのやり取りも必要になってくるし、現地に行かないと対応できない作業もあるのだ。

朝9時に現地入りするのに4時30分に起床だ。
ただでさえPCの入ったカバンは重いのに、それに加えて宿泊用の荷物まで持って移動するのである。
左肩に全ての荷物を引っ掛け、空いた右手で傘をさす。
現地入りするまでに体力のほとんどを使い切ってしまう。
雨の日の出張は本当に嫌いだ。

以前、「身代わり残業の実態」について記事を書いたことがあった。
働き方改革という言葉だけが独り歩きし、表面上は残業が少なくなったかに見えているが、実際は残業時間が計上されない中間管理職にシワ寄せが来ているというものだ。

通勤や出張で疲弊した体に、更に数字には現れてはこない「身代わり残業」が降り掛かってくる。
何も変わらない・・・・・。
体力的にも精神的にも辛さは増すばかりだ。

確かに辛い、でも、それは私だけ?

どうにかこうにか仕事を終え、最寄りの安いビジネスホテルに到着した。
素泊まりで5,000円。
安いだけが魅力の、お世辞にも綺麗とは言い難い、外装も内装もくたびれたホテルだった。

小さいテーブルが一つあり、目の前の壁には14インチの壁にかけた液晶TVがある。
喫煙可能な部屋しか予約が取れず、ドアを開け部屋に一歩入った途端、鼻をつくヤニの香りにまずは顔をしかめた。

ため息交じりに椅子に腰を下ろし、右手に持っていたビニールのショピングバッグをテーブルに置いた。
ホテルに入る前、近所のスーパーで閉店間際に買った惣菜と缶入りのハイボールが入っている。

見るとはなしに点けたTVをBGMに、スマホでニュースやTwitterをチェックしながら、ボソボソと遅い夕食を摂る。
アラフィフおやじのエレジー全開である。
悲しいったらありゃしない。

そんな中、目に飛び込んできたのは1件のツウィートだった。

ドキリとした。

確かに仕事で辛く苦しい思いはしている。でも、それは私だけではないのだ。
「金を稼いでいる」、それだけを免罪符に私はこの刑事さんのように家庭を顧みていない・・・・。
カミさんだってパートに出て金を稼ぎ、さらに家事全般をこなしているのだ。

定年を過ぎてから、カミさんと自由で楽しい時間を過ごそう!と夢に見てはいても、ひょっとしたらカミさんはこの世に居ない可能性だってあるのだ。
もちろん、私が居ない可能性のほうが高い。
だが、定年が過ぎれば全ての苦しみから開放され、楽しい余生が待っていると勝手に思い込んでいる。

まさか家族が亡くなってしまったら?なんて、1ミリだって考えてはいなかったのだ。
(私は10年前に大病を患ったので、私が先に居なくなることは想像はしていたが・・・・・)

何より家族、友人との時間が大切

当たり前だが、仕事なんて結局は私が抜けたところで、その穴は必ず組織が埋める。
そうでなければ業務は回らない。
私の代わりなど掃いて捨てるほど居るのだ。

これも当たり前だが、家族や友人にとって私は唯一の存在であり代わりは居ない。
そんなシンプルで当たり前のことを、日々の忙しさで忘れてしまう。
何より、一番大切な人たちと過ごす時間をないがしろにしがちなのだ。

後悔先に立たず。

昔の人は、当たり前だが本質的なことをしっかりと言葉に遺し伝えている。
失ったものは取り戻せない。時間と同じだ。

このツウィートを見て改めて思った。
考えてみたら、仕事なんてどうでも良いんだと。

人生の優先順位で、仕事は必ずしも1位にはならないのである。
他人はわからないが私はそうだ。

残りの人生、もっと思い出に残る時間の使い方をしなければ!
こう思っただけで、沈んで曇った気分が少しだけ晴れた気がした。
ハイボールも少しだけ美味くなったような気がした。

早く家に帰りたい。心からそう思った。

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